【ピアノ】舘野泉監修「左手のためのピアノ作品集」レビュー
► はじめに
左手のためのピアノ曲に興味を持ったとき、「まずは有名な作品をひととおり知りたい」と考える方は多いのではないでしょうか。そんな方にとって、まず手に取る候補の一つが、音楽之友社から2010年に刊行された、舘野泉監修「左手のためのピアノ作品集」です。
収録されているのは、スクリャービン「左手のための2つの小品 Op.9」、ブリッジ「3つのインプロヴィゼーション」、バッハ=ブラームスの「シャコンヌ」、シュールホフ「組曲 第3番」、そしてミニョーネ「左手のための14の小品集」からの抜粋。左手作品のレパートリーを代表する作品が、一冊にまとめられています。
本記事では、曲集の特色や監修者のまえがき、収録曲の内容を順に紹介していきます。
・曲集名:左手のためのピアノ作品集(Piano Music for the Left Hand)
・出版社:音楽之友社(「舘野泉 左手のピアノ・シリーズ」の一冊)
・初版:2010年
・ページ数:63ページ
・対象レベル:中級~上級者
・収録曲数:5作品・18曲(ミニョーネは「14の小品集」から7曲を抜粋)
・監修:舘野泉
► 監修者 舘野泉とは
舘野泉は1936年東京生まれのピアニストです。1960年にデビューし、フィンランドを拠点に長く国際的な演奏活動を続けてきました。2002年に脳溢血で倒れて右半身に後遺症が残ったものの、2004年に左手のピアニストとして舞台に復帰しました。
本書は、舘野氏のデビュー50周年にあたる2010年に刊行されました。委嘱新作を中心とする「舘野泉 左手のピアノ・シリーズ」の中で、古典的な左手レパートリーをまとめた一冊という位置づけになります。
► 曲集の内容
‣ 左手作品の「名曲」を一冊で押さえられる
収録作品はいずれも、左手のためのピアノ曲を語るうえで外せないものばかりであり、どこから手をつければいいか迷っている方にとって、代表的なレパートリーを見渡すための入り口としてぴったりです。
なかでも貴重なのが、ミニョーネの作品が収められている点でしょう。ミニョーネの左手作品を載せたアンソロジーは珍しく、本書では全14曲のうち7曲が抜粋で収録されています。
‣ ゆったりとした、読みやすいレイアウト
譜面のレイアウトに余裕があり、とても見やすいのも本書の長所です。例えば「シャコンヌ」の1ページ目は、他の版を見慣れている方なら驚くほど、たっぷりとスペースが取られています。この読みやすさが譜読みの負担を大きく減らしてくれるでしょう。
‣ 日本語・英語のバイリンガル表記
まえがき、作品解説、舘野泉のプロフィールの3つは、日本語と英語の両方で掲載されています。左手作品については日本語で解説された資料がそれほど多くないため、作品ごとに詳細解説がついているのは有益ですし、英語圏の指導者との情報共有にも使いやすい作りです。
‣ 監修者の解釈を前面に出さず、楽譜そのものを読むための構成
アンソロジーには、編者の演奏解釈を細かく書き込んだタイプと、作品をなるべく元の姿で届けるタイプがあります。本書は、どちらかといえば後者に近い作りです。運指やペダリングは、作曲者自身の指示以外にはほとんど加えられていません。
対照的な例として挙げられるのが、フェリックス・フォックス編「The Boston Music Company Digest of Piano Pieces: for the Left Hand Alone」でしょう。こちらは運指・ペダル・アーティキュレーションまで編者の手が入っており、解釈の参考書として役立つ一冊です。
舘野泉監修の本書は、奏者が自分で考える余白を残した楽譜。目的に応じて使い分けたいところです。
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‣ 監修者のまえがきから
本書の読みどころの一つが、舘野泉自身によるまえがきです。左手のピアニストとしての実感がこもった文章で、楽譜を開く前にぜひ目を通しておきたい内容です。主なポイントをかいつまんで紹介しておきましょう。
まず、「左手のための作品を両手で弾いてもよいのか」という質問に対して、舘野は弾き手の自由に任せる姿勢を示しています。左手だけで弾かなければならないという決まりはどこにもなく、自分が作曲家や編曲者になったつもりで、弾きやすい方法を選べばよいという考え方でした。そのうえで、片手で全音域を扱う身体のバランスや、低音・旋律・内声を一つの手でさばく難しさにも触れつつ、まずは細かいことにとらわれず、作品と対話するように弾いてみてほしいと呼びかけています。
各曲へのコメントも印象的です。ブラームスの「シャコンヌ」は、かつては右手を痛めたときの一時しのぎの練習曲程度に見られがちで、舘野自身も左手で弾き始めた当初は退屈な曲だと感じていたとのこと。ところがある日、単音の連なりに呼吸が通い始め、音楽が歌い出す瞬間を経験したと振り返っています。
そのほか、スクリャービンの2曲は左手作品の大傑作の一つ、ブリッジの作品は「手が一本か二本かは問題ではない」と気づかせてくれた「コロンブスの卵」、シュールホフは技術的にかなりの難曲、ミニョーネの小品はどれも表情豊かな名曲——といった趣旨の評価が、それぞれのエピソードとともに語られています。演奏家ならではの視点に触れられる、貴重なまえがきです。
‣ 収録曲一覧
以下は楽譜の目次に沿った収録曲の一覧です。
※ページ番号は2010年11月10日第1刷に基づきます。
| 作曲者 | 作品 | 曲名 | ページ |
|---|---|---|---|
| アレクサンドル・スクリャービン | 左手のための2つの小品 Op.9 | プレリュード | 4 |
| アレクサンドル・スクリャービン | 左手のための2つの小品 Op.9 | ノクターン | 6 |
| フランク・ブリッジ | 3つのインプロヴィゼーション | 夜明けに | 10 |
| フランク・ブリッジ | 3つのインプロヴィゼーション | 夜の祈り | 13 |
| フランク・ブリッジ | 3つのインプロヴィゼーション | 酒宴 | 15 |
| J.S.バッハ/ヨハネス・ブラームス | - | シャコンヌ | 19 |
| エルヴィン・シュールホフ | 組曲 第3番 | プレリュード | 34 |
| エルヴィン・シュールホフ | 組曲 第3番 | アリア | 38 |
| エルヴィン・シュールホフ | 組曲 第3番 | ツィンガラ | 40 |
| エルヴィン・シュールホフ | 組曲 第3番 | インプロヴィゼーション | 44 |
| エルヴィン・シュールホフ | 組曲 第3番 | フィナーレ | 46 |
| フランシスコ・ミニョーネ | 左手のための14の小品集 | ジャンガーダ | 51 |
| フランシスコ・ミニョーネ | 左手のための14の小品集 | デスリザンド | 52 |
| フランシスコ・ミニョーネ | 左手のための14の小品集 | プリンカリョン | 53 |
| フランシスコ・ミニョーネ | 左手のための14の小品集 | ヴァルサ | 55 |
| フランシスコ・ミニョーネ | 左手のための14の小品集 | サペカ(デゼンヴォルタ) | 56 |
| フランシスコ・ミニョーネ | 左手のための14の小品集 | カンソン | 58 |
| フランシスコ・ミニョーネ | 左手のための14の小品集 | モディーニャ・ドラマティカ | 59 |
ここからは、各作曲家と作品について簡単に紹介します。
· スクリャービン:左手のための2つの小品 Op.9
アレクサンドル・スクリャービン(1872-1915)は、モスクワに生まれモスクワで没したロシアの作曲家・ピアニストです。
Op.9は、スクリャービンが練習のしすぎで右手を痛めたことをきっかけに生まれた2曲です。1894年に作曲、翌1895年に出版されました。後年の神秘主義的な作風とは異なり、ロマンティックな語法で書かれており、内容・知名度ともに左手作品を代表する名作です。
プレリュードは、演奏時間約3分半、難易度はツェルニー30番修了〜40番入門程度。ノクターンは、演奏時間約6分、難易度はツェルニー40番中盤程度。
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· ブリッジ:3つのインプロヴィゼーション
フランク・ブリッジ(1879-1941)はブライトン生まれ、イーストボーン没のイギリスの作曲家です。
本作は1918年頃、第一次世界大戦での負傷がきっかけで右腕を肘のあたりから切断したピアニスト、ダグラス・フォックスのために書かれ、1919年頃に出版されました。ブリッジはフォックスを励ます思いを込めてこの曲を贈り、作品が彼に笑顔をもたらすことを願う言葉を手紙に添えたと伝えられています。
3曲はそれぞれ対照的な性格を持ちながら、第1曲から第3曲へと進むにつれて、音楽がだんだん親しみやすくなっていく構成もこの作品の面白さでしょう。
演奏時間は全曲で約8分、難易度はツェルニー40番修了程度。
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· バッハ=ブラームス:シャコンヌ
J.S.バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第2番」終曲「シャコンヌ」を、ヨハネス・ブラームス(1833-1897)が左手だけで弾けるように編曲した作品。ブラームスは、ハンブルクに生まれウィーンで没したドイツの作曲家です。
1877年6月、右手を痛めていたクララ・シューマンのために、手紙とともに贈られたのがこの編曲でした。左手のためのレパートリーの中でも特に重要な位置を占めており、今も多くのピアニストが演奏会で取り上げる名編曲です。
演奏時間は約15分、難易度はツェルニー40番修了程度。
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· シュールホフ:組曲 第3番
エルヴィン・シュールホフ(1894-1942)は、プラハのドイツ系ユダヤ人家庭に生まれ、バイエルンのヴュルツブルク(Wülzburg)の収容所で没したチェコの作曲家・ピアニストです。
「組曲 第3番」は1926年、第一次世界大戦で右手のひらを撃ち抜かれるという重傷を負ったチェコのピアニスト、オタカール・ホルマンのために作曲されました。
組曲はプレリュード、アリア、ツィンガラ、インプロヴィゼーション、フィナーレの5曲構成。和声・リズムともにシュールホフの多彩な作風が凝縮されており、表現に関する指示も細やかに書き込まれています。
演奏時間は全曲で約15分、難易度はツェルニー40番修了程度。
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· ミニョーネ:左手のための14の小品集(抜粋)
フランシスコ(パウロ)・ミニョーネ(1897-1986)は、サンパウロで生まれリオデジャネイロで亡くなったブラジルの作曲家・指揮者です。
「左手のための14の小品集」は1984年、事故で右手に障がいを負った青年の依頼を受けて書かれた作品で、ミニョーネ87歳の晩年作にあたります。各曲に異なる技術的課題が盛り込まれつつ、ブラジルらしい「お国柄」が感じられる、音楽的にも魅力のある小品集に仕上がりました。
本書では、まとまった形で7曲を確認できる点に資料的な価値があります。
難易度はツェルニー40番修了程度。演奏時間は曲によって異なりますが、いずれも短い小品です。
► 楽譜情報
書名:舘野泉 左手のピアノ・シリーズ 左手のためのピアノ作品集
監修:舘野泉
出版社:音楽之友社
発行:2010年11月
ページ数:63ページ
初版第1刷:2010年11月10日
同じ「舘野泉 左手のピアノ・シリーズ」からは、「左手のためのピアノ小品集」「左手のためのピアノ珠玉集」といった監修アンソロジーも出ています。本書で定番の左手作品を知ったら、こちらもあわせてチェックしてみてはいかがでしょうか。
► 終わりに
舘野泉監修「左手のためのピアノ作品集」は、左手のための代表的なレパートリーを、一冊の楽譜でまとめて知ることのできるアンソロジーです。スクリャービン、ブリッジ、ブラームス、シュールホフという、この分野を語るうえで重要な作曲家の作品に加え、ミニョーネ「左手のための14の小品集」から7曲が収録されている点も特徴です。
また、本書は単に作品を並べただけの曲集ではありません。監修者自身によるまえがきでは、左手作品をどのように捉え、どのように向き合ってきたのかが語られています。左手だけで弾くことにこだわりすぎず、作品と対話しながら自分なりの演奏方法を探していくという考え方は、本書を読むうえでも興味深いところでしょう。
一方で、運指やペダリングについては監修者による細かな指示が多くありません。そのため、演奏解釈を具体的に示した楽譜を求める場合には、別の版と比較してみるのもいいでしょう。
左手のためのピアノ作品をこれから探してみたい方にとって、代表的な作品と舘野泉の言葉の両方に触れられる、資料性のある一冊です。
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