【ピアノ】マルグリット・ロンが語るラヴェルの左手協奏曲
► はじめに
ラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」は、片手・左手ピアノの世界において最も重要なレパートリーの一つです。この作品がどのような経緯で生まれ、ラヴェルがこの作品をどのように捉えていたのかを知る手がかりとして、大変貴重な証言が残されています。それが、ラヴェルと親交を結び、その作品を数多く初演したピアニスト、マルグリット・ロンによる回想録です。
ロンはラヴェルの作品を数多く初演し、作曲家本人から直接教えを受けた数少ない演奏家の一人でした。本記事では、その回想録「ラヴェル―回想のピアノ」(マルグリット・ロン 著 / 北原道彦・藤村久美子 訳、音楽之友社)に記された内容を手がかりに、「左手のためのピアノ協奏曲」がどのような背景のもとに生まれ、ラヴェルがこの作品にどのような考えを持っていたのか、また、それがどのような演奏解釈につながるのかを、筆者なりの言葉でまとめてみたいと思います。
※本記事では、マルグリット・ロン「ラヴェル―回想のピアノ」の記述を要約・参照しながら、筆者の解釈を加えて紹介しています。
► マルグリット・ロンが語るラヴェルの左手協奏曲
‣ 二つの協奏曲、一つの覚悟
1929年の夏、ラヴェルは二つのピアノ協奏曲に同時に取り組み始めます。一つは「ピアノ協奏曲 ト長調」、そしてもう一つが、第一次世界大戦での負傷がきっかけで右腕を失ったオーストリアのピアニスト、パウル・ヴィトゲンシュタインから依頼された「左手のためのピアノ協奏曲」でした。
興味深いのは、ラヴェルがこの作品を、単なる「片手で弾くための音楽」としてではなく、新たな音楽表現を探る機会として捉えていたことです。ロンの回想によれば、ラヴェルにとってこの依頼は、新しい表現手段を切り開くための格好の機会であり、不器用な打開策として片手で妥協した音楽を作ることを、あらかじめ拒んでいたといいます。両手で弾いているかのように聴かせること、これこそが彼の目指した唯一かつ十分な動機でした。
‣ 初演をめぐる確執:ラヴェルとヴィトゲンシュタイン
この左手協奏曲を語るうえで欠かせないのが、作曲者と依頼主であるヴィトゲンシュタインとの間に生じた深刻な対立です。ロンはこの確執の現場に居合わせた数少ない証言者の一人でした。
1931年1月、ウィーンでヴィトゲンシュタインによる非公開演奏会が催され、ロンはラヴェルとともに招かれます。その演奏の前に、ロンはヴィトゲンシュタインに「音を変更したのであれば、事前にラヴェルに伝えておいたほうがいい」と助言しますが、彼はそれを行いませんでした。結局、ヴィトゲンシュタインは自らの判断で楽譜に変更を加えて演奏してしまい、ラヴェルはこれに激しく抗議し、両者の関係は険悪なものになっていきました。
ロンの回想には、当事者同士の緊張がそのまま伝わってくるようなやりとりが記されています。両者が作品の解釈をめぐって、いかに強く対立していたのかが伝わってきます。最終的にこの対立は数年にわたって尾を引くことになりました。
‣ 頂上での決裂:ピアノが切り拓く静寂
譜例(PD作品、浄書ソフトで作成、ソロの初導入部 29-33小節)

※ラヴェル自身によるピアノ伴奏版編曲(ソロ+ピアノ伴奏形式:2台ピアノ)から浄書
ロンの回想でもう一つ印象深いのは、演奏解釈をめぐる細やかな描写でしょう。楽曲冒頭、オーケストラが築き上げてきた強烈な高まりが、頂点に達した瞬間に突如として断ち切られ、ピアノ独奏へと受け渡される場面についての表現は、非常に魅力的です。
その瞬間についてロンは、次のように語っています。
(以下、抜粋)
頂上にくると突然決裂して、ピアノの開始に対して雄大な背景を準備します。それは麻痺したような静けさが、征服者の到来を告げるかのようです。
(抜粋終わり)
オーケストラの奔流が唐突に断ち切られた後に訪れるこの沈黙は、単なる休止ではなく、これから始まる独奏の存在感を際立たせるための、いわば舞台装置としての静寂であるという捉え方です。
‣ 死の影を宿した作品として
終盤に向けて、ロンは曲全体に漂う不穏さについても言及しています。
(ロンの記述を筆者が要約)
ラヴェルは「三文オペラ」を思わせるジャズ風のアレグロを使い、工場の騒音を連想させるようなリズムがオーケストラを支配していきます。金属をぶつけるような激しい連打が高圧的に鳴り響いたのち、ふいに静寂が訪れます。オーケストラが再び静かに始まる場面では、高音部にあった変ロ音のオクターヴが今にも息絶えそうに響き、そこから低い音の波が押し寄せて、その響きを呑み込んでいきます。
ロンは、この曲を研究すればするほど、そこにある理念がはっきりと浮かび上がってくると述べています。そして、友としてラヴェルの緩やかで残酷な崩壊を見届けた経験を振り返りながら、この曲の中には「死」の観念と恐怖とが刻み込まれているように感じられる、と述べています。
ここで重要なのは、ロンが「ラヴェルは死を予感してこの曲を書いた」と断定しているわけではないことです。むしろ、ラヴェルの晩年を知るロンが、後年になってこの作品を振り返ったとき、そこに「死」の影を感じ取っていると読むべきでしょう。
さらにロンは、この音楽を、ジャン・コクトーの「未知の世界からの使者を迎え入れる」という言葉になぞらえています。
► 終わりに
マルグリット・ロンの回想は、楽曲解説に留まらず、ラヴェルとヴィトゲンシュタイン、そして演奏家たちの間に生まれた緊張関係までを伝えてくれる貴重な記録です。
とりわけ印象的なのは、ラヴェルが「片手で弾く」という条件を、両手のために書かれた音楽を単純に置き換えるための制約としてではなく、新しい表現を生み出すための出発点として捉えていたことです。冒頭でオーケストラが極限まで高まり、突然静寂へと切り替わったところに現れるピアノ。その姿をロンが「征服者」の到来として捉えたことを思うと、この作品における「左手」は、ただの技術上の条件ではなく、音楽そのもののドラマを生み出す要素だったのだと感じさせられます。
・ラヴェル―回想のピアノ 著:マルグリット・ロン 訳:北原道彦、藤村久美子 / 音楽之友社
この書籍についての詳しいレビューは、【ピアノ】マルグリット・ロン「ラヴェル―回想のピアノ」レビュー(姉妹サイトへリンク)をご覧ください。
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