【ピアノ】フェリックス・フォックス「The Boston Music Company Digest of Piano Pieces: for the Left Hand Alone」レビュー

【ピアノ】フェリックス・フォックス「The Boston Music Company Digest of Piano Pieces: for the Left Hand Alone」レビュー

► はじめに

 

今回取り上げるのは、ボストン・ミュージック・カンパニーから1917年に刊行された「The Boston Music Company Digest of Piano Pieces: for the Left Hand Alone」。ピアニストで教育者のフェリックス・フォックス(Félix Fox)が編者を務めた、比較的取り組みやすい小品から、本格的なコンサートピースまでを収めた左手独奏曲集です。

収録されているのはロマン派のサロン小品からスクリャービン、そしてオペラ編曲まで、全8曲。現在でもKessinger Publishingによる復刻版が流通しています。左手のレパートリーを広げたい方や、細かな運指・ペダル指示から解釈を学びたい方にとって、手元に置いておく価値のある一冊と言えるでしょう。

本記事では、編者のプロフィール、曲集の特色、収録曲の内容を順に紹介していきます。

 

► 曲集の内容

‣ 基本情報

 

曲集名:The Boston Music Company Digest of Piano Pieces: for the Left Hand Alone
編者(校訂):フェリックス・フォックス(Félix Fox, 1876-1947)
出版社:The Boston Music Company(ボストン・ミュージック・カンパニー)
出版年:1917年
ページ数:38ページ(原版)
収録曲数:8曲(全曲左手独奏)

 

出版元のボストン・ミュージック・カンパニーは、1885年にグスターヴ・シャーマー・ジュニアがボストンで興した楽譜出版社です。ニューヨークの楽譜出版社G.シャーマーの創業者の次男にあたる人物です。同社はエセルバート・ネヴィン(1862-1901)の作品を手がけたことで広く知られるようになりました。

 

‣ 編者 Félix Foxとは

 

フェリックス・フォックスは1876年、当時ドイツ領だったブレスラウ(現ポーランドのヴロツワフ)に生まれ、1947年にボストンで亡くなったピアニスト・教育者です。ライプツィヒでカール・ライネッケにピアノを、ザーロモン・ヤーダスゾーンに音楽理論を学び、さらにパリでイシドール・フィリップの指導を受けました。

1896年にライプツィヒでデビューしたのち、1897年にパリ、1898年にボストン、1907年にロンドンと、各地でデビュー公演を重ねています。1897年にボストンへ移住し、翌1898年、ピアニストのカルロ・ブオナミーチとともに「Fox-Buonamici School of Pianoforte Playing」を設立しました。

演奏家としては、ボストン交響楽団やフィラデルフィア管弦楽団などとの共演歴を持ち、作曲や編曲も手がけました。

 

‣ この曲集ならではの特色

 

まず注目したいのは、選曲そのものです。一般的な左手曲集ではあまり見かけないシュピンドラー、フンメル、ホレンダーの左手作品がまとめて収められており、これだけでも、19世紀の左手作品にアクセスできる資料として興味深い存在です。いずれも19世紀後半に書かれた左手のためのオリジナル作品で、個別の楽譜を探すのが難しいものも少なくありません。

もう一つの特色は、フォックスによる書き込みの細かさ。運指とペダリングが非常に丁寧に記されており、楽譜から読み取れる情報量はかなり多めです。実践的なヒントが詰まっているため、解釈を学ぶための併用教材としても活用できます。

一方で、アーティキュレーションや分散和音の弾き方といった部分にも編者の解釈が加えられている点は、便利である一方、注意も必要です。特にスクリャービンの2曲は、原典版と見比べながら使うことをおすすめします。フォックスの指示を「一つの読み方」として参考にしつつ、作曲者自身の書いた音符と記号を確認しておくと安心でしょう。

 

‣ 収録曲一覧

 

以下は楽譜の目次に沿った収録曲の一覧です。日本語の定訳がない作品も多いため、曲名は楽譜に記載された英語表記のまま掲載しています。

1. Spindler, Fritz:Romance
2. Hummel, Ferdinand:March
3. Hollaender, A.:Evening Song
4. Hollaender, A.:The Hunt
5. Hollaender, A.:Waltz
6. Scriabine, A.:Prelude
7. Scriabine, A.:Nocturne
8. Donizetti, G.:Andante Finale from “Lucia”

ここからは、各作曲家と作品について簡単に触れておきます。

 

· 1. シュピンドラー:Romance

 

フリッツ・シュピンドラー(1817-1905)はドレスデンを拠点に活動したドイツの作曲家。生涯で330を超える作品を書き、19世紀のサロン音楽の分野で人気を集めました。

曲集に収められた「Romance」は、「3つのロマンス Op.156」の第1曲にあたる作品。1864年頃に出版されました。

この曲集の中でも、演奏効果・難度ともに比較的高い作品です。3度や6度の連続、オクターヴ、アルペジオ、スケールといった多彩な奏法がバランスよく組み込まれています。

演奏時間は約3分30秒、難易度はツェルニー40番中盤程度。

 

· 2. フンメル:March

 

フェルディナント・フンメル(1855-1928)は、ベルリンで活躍した作曲家・ハープ奏者・ピアニスト。幼少期からハープ奏者として頭角を現し、のちにベルリン王立劇場の音楽監督や宮廷楽長を務めました。ちなみに、ベートーヴェンと同時代のヨハン・ネポムク・フンメルとは血縁関係がありません。

「March」は、1900年に刊行された「左手のための5つの小品 Op.43」の最終曲。各曲で異なる左手奏法を扱うこの曲集の締めくくりとして置かれた行進曲で、付点リズムが全体を貫きます。無理な跳躍が少なく手に収まりやすい書法でありながら、同じ難易度帯の左手作品と比べると聴き映えのする一曲です。

演奏時間は約4分30秒、難易度はツェルニー30番中盤程度。

 

· 3〜5. ホレンダー:Evening Song / The Hunt / Waltz

 

アレクシス・ホレンダー(1840-1924)は、ピアニスト・指揮者としてベルリン楽壇で存在感を示した音楽家です。シューマンの「クライスレリアーナ Op.16」「交響的練習曲 Op.13」などのベルリン初演を担い、シューマン作品の校訂者としても名を残しました。エーデルの「Piano Music for One Hand」には、第一次世界大戦で右腕を失ったパウル・ヴィトゲンシュタインが左手の作品を探し求めた際、数少ない収穫の一つにホレンダーの作品があったという逸話が記されています。

本曲集の3曲は、いずれも1884年出版の「6つの小品 Op.31」から採られたもので、原曲集の中の位置づけは次のとおりです。

Evening Song:第1曲「Abendlied(夕べの歌)」
The Hunt:第6曲「Jagdlied(狩の歌)」
Waltz:第4曲「Walzer(ワルツ)」

「Evening Song」は和音中心の書法で進むロマンス風の小品。付点リズムに乗せて、和音の中から旋律が浮かび上がってくるように歌わせるのが聴かせどころで、どこかシューマンを思わせる響きがあります(約1分30秒)。

「The Hunt」は狩猟の情景を描いた、明るく快活な曲。音使いは素朴ですが、広い音域を行き来する跳躍が多く、Op.31の中ではやや手ごわい部類に入ります(約2分30秒)。

「Waltz」はサロン風の優雅なワルツ。強弱のコントラストが随所に置かれ、上品さの中にも生き生きとした躍動感が感じられます(約2分50秒)。

3曲ともツェルニー30番修了〜40番入門程度の難易度で、左手作品に初めて挑戦する方の入り口としても手頃です。

 

· 6〜7. スクリャービン:Prelude / Nocturne

 

アレクサンドル・スクリャービンの「左手のための2つの小品 Op.9」から、プレリュードとノクターンの2曲が収められています。左手作品の中でも特に知名度が高く、演奏機会の多いレパートリーと言えるでしょう。

先に触れたとおり、フォックスの校訂には編者独自の解釈が含まれる(ノクターンの例:9小節目の10度音程「F – As」のF音が装飾音として書かれている など)ため、この2曲については原典版との併用をおすすめします。

プレリュードの演奏時間は約3分30秒、難易度はツェルニー30番修了〜40番入門程度。ノクターンの演奏時間は約6分、難易度はツェルニー40番中盤程度。

 

· 8. ドニゼッティ(レシェティツキー編):Andante Finale from “Lucia”

 

目次ではドニゼッティの名前で掲載されていますが、本文を開くと「Arranged by Theodor Leschetizky」と明記されており、名教師テオドール・レシェティツキー(1830-1915)による左手編曲であることが分かります。

原曲はオペラ「ランメルモールのルチア」の有名な六重唱「Chi mi frena in tal momento」。ドニゼッティの旋律をもとに、レシェティツキーが左手独奏用に華やかな技巧を加え、上級者向けのコンサートピースに仕上げています。

左手編曲の中では比較的よく知られた作品で、複数のアンソロジーや海外盤の録音にもたびたび登場します(例:【ピアノ】左手ピアノ作品史をたどる一枚:ヴァクフゼン「Für die linke Hand allein」レビュー)。

演奏時間は約6分、難易度はツェルニー50番入門以降程度。

 

► 楽譜情報

 

原版は100年以上前の出版物のため、現在入手しやすいのは復刻版(ファクシミリ・リプリント)です。

書名:The Boston Music Company Digest of Piano Pieces: for the Left Hand Alone
編集:Felix Fox
出版社:Kessinger Publishing(復刻版)
発売年:2010年
ページ数:46ページ

 

The Boston Music Company Digest of Piano Pieces: for the Left Hand Alone

 

► 終わりに

 

「The Boston Music Company Digest of Piano Pieces: for the Left Hand Alone」は、わずか8曲の小さな曲集ながら、他ではなかなか出会えない19世紀の左手オリジナル作品、スクリャービンの代表的な左手作品、そしてレシェティツキーによる編曲作品を一冊で見渡せる貴重なアンソロジーです。

フォックスの丁寧な運指・ペダル指示は、左手だけで音楽を組み立てるための生きた手本であり、演奏のヒントだけでなく、20世紀初頭のピアニストがどのように作品をとらえていたのかも伝えてくれます。

 

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