【ピアノ】片手ピアノ音楽を知る手がかり:ゴドフスキーの論考「Piano Music for the Left Hand」(1935年)
► はじめに
「左手の使徒」とも呼ばれるレオポルド・ゴドフスキー(1870-1938)は、「なぜ、わざわざ左手だけのために曲を書くのか」という問いに、長年向き合ってきた作曲家でした。「ショパンのエチュードによる練習曲」をはじめ、数多くの左手作品を残したゴドフスキーは、1935年、アメリカの音楽誌「The Musical Quarterly」に「Piano Music for the Left Hand」という短い論考を寄せ、自らの答えをまとめています。
本文はわずか3ページ。しかし、その中には、左手という「手」をどう捉えるか、そして一つの手という制約から何が生まれるのかについて、作曲家・ピアニストとしての確信が凝縮されています。
本記事では、この論考の内容を紹介しながら、片手のための作曲・編曲や演奏に活かせるポイントを整理していきます。
論考名:Piano Music for the Left Hand
著者:Leopold Godowsky(レオポルド・ゴドフスキー)
掲載誌:The Musical Quarterly, Vol.21, No.3(1935年7月号)
刊行年:1935年
ページ:pp.298〜300
言語:英語
► ゴドフスキー「Piano Music for the Left Hand」
‣ 論考の位置づけ
この論考が書かれた1935年は、ゴドフスキーが「左手のための組曲」や「左手のための6つのワルツポエム」など、晩年の左手作品を集中的に生み出した数年後にあたります。若き日に手がけた「ショパンのエチュードによる練習曲」から数えると、左手音楽との関わりはすでに40年あまりに及んでいました。その経験を踏まえて、左手のために書く意味を論じたのが本稿です。
楽譜集「THE GODOWSKY COLLECTION」の巻頭解説でも、晩年の左手書法を説明する典拠としてたびたび引用されており、ゴドフスキーの左手観を知るうえでの基本資料と言えるでしょう。
構成はシンプルで、本文と4つの脚注から成っています。脚注にも、ゴドフスキーの演奏観や芸術観がうかがえる興味深い話が書かれていました。
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‣ 出発点:左手に向けられた2つの疑問
論考は、ゴドフスキーがたびたび受けてきた疑問の紹介から始まります。要約すると、次の2点です。
・機械的な観点から見ると、左手は右手より劣っているのではないか
・芸術的な観点から見ると、片手という制約は、名人芸を見せびらかすためのものにすぎないのではないか
オーケストラやオルガンに匹敵する音域を持つピアノを、わざわざ一つの手に狭めるのは筋違いだ、という見方もあったようです。
これに対するゴドフスキーの答えは明快でした。長年の経験から言えば、身体的な面では、左手のほうが右手よりも鍛錬に応えやすい。その証拠として、まず弦楽器奏者の左手が挙げられます。ヴァイオリンやチェロの奏者の左手が、どれほど精緻な動きを身につけているかを思えば、確かに説得力のあるたとえではないでしょうか。そのうえでゴドフスキーは、それだけでは証拠として足りないなら、と前置きして、さらにいくつかの理由を挙げていきます。
‣ 左手が有利だと考えた理由
ゴドフスキーは左手が右手より有利だと考えており、その理由は、大きく三つにまとめられます。
1. 脱力しやすい
ゴドフスキーによれば、当時のピアノ教育はすでに「重量奏法」と「脱力」を土台とするものになっていました。ところが、人は日常の作業の大部分を右手で行うため、右手には習慣的な緊張が生じやすい、と彼は指摘します。その点、比較的そうした習慣から自由な左手のほうが、ピアノ演奏に必要な脱力を身につけやすい、というのが彼の考えでした。
脚注では、ゴドフスキー自身が重量奏法の原理に気づいた体験も語られています。20歳の頃、限られた期間で複数のプログラムを準備するため、何か月も毎日12時間ほど練習していたゴドフスキー。一日中練習した後、夕食を済ませて夜に再びピアノに向かうと、力をあまり入れていないのに、かえって演奏が良く響くことに気づきます。何週間も不思議に思っていたところ、ある時その理由に思い当たりました。疲れ切って筋肉に力を入れる余裕がなかったため、自然と力が抜け、腕の重さをそのまま鍵盤に預けていたのです。肘掛け椅子が身体の重さを支えるように、鍵盤に腕の重さを預ける。叩いたり、力任せに押しつけたりするのではなく、腕の重さを利用して音を生み出す。この原理に気づいた経緯を、ゴドフスキーはこのように振り返っています。
2. 強い指が上の声部を担える
左手で重音や和音を弾く場合、親指・人差し指・中指といった比較的強い指が、上声部の音を受け持つことになります。より重要な声部を、より強い指で弾ける。この点で、左手は鍵盤に対して「より恵まれた位置」にある、というわけです。(※補足:上声部にはメロディが置かれることが多いため、それを強い指で歌わせやすい、ということでもあるでしょう。)
さらに、上行するパッセージに伴うことの多いクレッシェンドも、左手には同じように有利だと述べられています。(※補足:左手で上行すると、弱い指から強い指の側へと進んでいく形になります。音量を増していく流れと、指の強さの順序が一致しやすい、という意味に読めます。)
3. 響きの良い低音域を受け持てる
ゴドフスキーは、鍵盤の下半分が持つ豊かな響き、まろやかさ、音色の繊細さを高く評価していました。それに比べると、高音域の響きは細く、硬く、軽い。そして、その傾向は高い音域へ上がるほど強まっていきます。
低音域の豊かさのおかげで、左手は打楽器的でない、よく響く音を、最小限の力で出しやすい。量と質を兼ね備えた音が、無理なく得られるということです。
一方で、ゴドフスキーは、左手が技術面で右手に後れを取りがちな原因にも触れています。その主な理由の一つは、左手を育てるのにふさわしい教材が、古典派、ロマン派、近現代のどのレパートリーにも不足していることにある、という指摘でした。手そのものではなく、環境の問題だという見方です。
‣ ダンパーペダルは「もう一方の手」
片手のための創作において、特に重要なのがこの部分です。
ゴドフスキーによれば、左手だけで演奏するとき、ダンパーペダルの役割は非常に大きくなり、「ほとんどもう一方の手の代わりを務める」ほどだといいます。手は鍵盤の別の場所を弾くために、それまで押さえていたバス音や和音、声部を離さなければなりません。その離した音を支え続けるのが、ペダルの仕事というわけです。
脚注では、この考え方が歴史的な視点からも補強されています。J.S.バッハをはじめとする対位法の作曲家たちは、多声音楽の発展に大きく貢献しました。しかし当時の鍵盤楽器は、音域や響き、音の持続に限りがありました。そのため、声部を手の届く範囲より外へ広げることができなかった、というのです。
現代のピアノは、豊かな音の持続とダンパーペダルによって、手の届く範囲を超えて声部を響かせ続けることを可能にしました。左手だけで多声的な音楽を書くという発想は、この楽器の進歩があってこそ成り立つものだったのかもしれません。
なお、ペダリングについてさらに詳しく知りたい読者には、「ショパンのエチュードによる練習曲」の第1番と第45番に付けた自身の注釈を読むよう勧めています。
‣ J.S.バッハの無伴奏作品に重ねた理想
ゴドフスキーは、自らの左手作品の目標を、バッハの無伴奏作品になぞらえて語っています。バッハがヴァイオリンとチェロのための無伴奏のソナタや組曲を書いたのは、それぞれの楽器が本来持つ音楽的な特質を表現するためだった。それと同じように、自分も左手に、ほかに頼らない独立した音楽の語りを与えたかった、というのです。
旋律楽器であるヴァイオリンやチェロで多声的な音楽を響かせたバッハの作品は、まさに「限られた手段で、それ以上のものを聴かせる」音楽の手本です。左手作品を書くうえで、この比較はとても考えさせられます。
さらにゴドフスキーは、自分の持てる工夫と鍵盤の知識、左手の経験のすべてを注ぎ込んだ結果、両手で書いていたなら決して書かなかったであろう組み合わせにたどり着いた、とも述べています。片手という条件は、単なる制約ではなく、新しい発想の源にもなっていたわけです。
‣「自ら課した制約」が想像力を広げる
論考の後半では、4手連弾のための「ミニチュア」を出版した際に出版社へ宛てた手紙の一部が引用されています。ゴドフスキーは、この手紙の内容が左手作品にもそのまま当てはまると述べていました。
その趣旨をまとめると、次のようになります。
・自ら課した制約の中で仕事をすると、手段を節約することがより高い集中につながる
・その集中した努力こそが、物質的にも精神的にも、人間の営みの真髄を生み出す
・限られた手段をやりくりする工夫は、想像力のまだ見ぬ領域を開いてくれる
ゴドフスキーは、自ら課した制約が予想もしなかった可能性を生み出すことに、繰り返し驚かされてきたと述べています。
‣ 媒体は「メッセージを伝える手段」にすぎない
脚注の一つでは、ゴドフスキーの芸術観がより広い視点から語られています。芸術作品の価値は「インスピレーション」「目的」「技法」の三つがそろってこそ決まる。そして、作品に込められた感情の深さ、理想の高さ、素材を展開する論理と独創性こそが、その芸術的な地位を決める、というのです。
そのうえでゴドフスキーは、媒体について次のように述べています。
※以下は掲載文からの筆者訳
媒体は、それがオーケストラであれ、ピアニストの両手であれ、あるいはただ一つの左手であれ、作曲家のメッセージを伝える手段にすぎない。
左手作品は、単に「片手で弾ける珍しい曲」ではなく、まず一つの独立した音楽作品として評価されるべきものです。この一文には、演奏媒体の違いによって作品の芸術的価値が左右されるものではない、というゴドフスキーの姿勢が表れています。
‣ 結びの言葉
論考は、もし左手に右手と同じだけの注意が払われるなら、その成果は少なくとも同じくらい良く、むしろずっと大きな満足をもたらすだろう、という言葉で締めくくられます。
そして最後に、ピアノのために作曲する人たちへ向けて、自身の「ショパンのエチュードによる練習曲」の序文からよく知られた一節を引用しています。左手だけで両手の仕事ができるのなら、それを両手に広げたとき、未来の作曲家の前にどんな展望が開けることか。左手作品を書く意義をピアノ音楽全体の未来につなげて語っているところに、ゴドフスキーの視野の広さが感じられます。
► 論考の閲覧方法
「The Musical Quarterly」第21巻(1935年)は、インターネット・アーカイブで閲覧することができます。以下のリンクから、論考の冒頭ページ(p.298)を直接開くことができます。
インターネット・アーカイブ:The Musical Quarterly 第21巻 第3号(1935年7月)
► 終わりに
わずか3ページの短い論考ですが、そこには、40年あまりにわたって左手音楽と向き合ってきたゴドフスキーの考えが詰まっていました。
「なぜ左手だけのために書くのか」。この問いに対するゴドフスキーの答えは、長い時を経た今も色あせていないように感じられます。
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