【ピアノ】ラヴェル「左手のためのピアノ協奏曲」の演奏・解釈を深める:Lauの研究論文を読む

【ピアノ】ラヴェル「左手のためのピアノ協奏曲」の演奏・解釈を深める:Lauの研究論文を読む

► はじめに

 

ラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」は、ヴィトゲンシュタインの依頼によって生まれた名曲として知られています。しかし、実際にこの作品を演奏しようとすると、片手で豊かな音楽的表現を成立させるための解釈や、左手一つで演奏することに伴う技術的な問題について、さまざまな課題に向き合うことになるでしょう。

本記事では、そうした課題に向き合ううえで参考になる研究として、Sandra Wing-Yee Lauによる1994年のD.M.A.論文(以下Lau(1994))を紹介します。Sandra Wing-Yee Lauは、Donald L. Pattersonの「One Handed」など、後の片手ピアノ音楽の資料でも言及・参照されている研究者です。

今回取り上げる論文の正式な情報は以下の通りです。

Lau, Sandra Wing-Yee. The Art of the Left Hand: A Study of Ravel’s “Piano Concerto for the Left Hand” and a Bibliography of the Repertoire. D.M.A. Final Project, Stanford University, 1994.

この論文は一般の音楽書ではなく、スタンフォード大学の音楽学部に提出された、D.M.A.(Doctor of Musical Arts)の学位取得のための最終プロジェクトとして書かれました。Chapter1では左手ピアノ音楽の歴史や研究上の問題を概観し、Chapter2ではラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」について演奏・解釈上の考察を行います。Chapter3は左手作品のレパートリー目録にあたる部分です。

 

現在は、ProQuest(UMI)経由でPDFを購入することができます。

※文章は英語で書かれています。

 

► Lauの論文を読む

‣ Lau(1994)の各章の評価

 

部分 評価 用途
Chapter1 左手レパートリーの歴史・問題設定
Chapter2:Ravel 演奏・解釈・実演上の考察
Chapter3:Repertoire 作品探索の補助資料程度
Bibliography 当時Lauが参照した資料を知る手掛かり

※評価は、本記事で紹介した内容と、筆者が他の片手音楽資料と照合したうえでの評価です。

 

‣ Chapter2で語られる演奏上のヒント

 

Lau(1994)の最大の魅力は、Chapter2におけるラヴェルの協奏曲に関する具体的な考察にあり、曲目解説に留まらず、実際に弾くときに役立つ視点がいくつも示されています。

目を引くのが、ソロとトゥッティの対比をどう出すかという話題です。トゥッティを考えるうえで重要なこととして、この「左手のための協奏曲」には、同じくラヴェルの「ピアノ協奏曲 ト長調」のオーケストラよりもはるかに大規模な管弦楽編成が採用されているという指摘は、意外と見落とされがちな着眼点ではないかと思いました。これは、左手一つで演奏されるピアノパートと、大規模な管弦楽との音響的な対比を考えるうえでも重要なポイントです。

そしてLauは、ソロとトゥッティの対比は、音の大きさやスケール感の違いというよりも、音色の違いの問題として捉えるべきだと指摘しています。33小節目での最初のソロの入りも、この枠組みの中で理解することができると述べられており、単に音量を落とす・上げるという発想ではなく、音色そのものをどう変化させるかという観点から対比を作る、という考え方は、演奏の解釈を考えるうえで参考になります。

また、テクニック的な注意点として、身体の使い方やペダリングの工夫、ヴラド・ペルルミュテールによる運指上の助言も紹介されており、片手演奏に伴う負担をどう減らすかという実践的な知見が随所に見られました。両手で弾く音楽の文脈ではほとんど意識されないような技術的な内容が、左手のための作品を演奏する際には決定的に重要な性質を持つと述べられている箇所もあり、この視点は左手作品ならではの気づきと言えます。

さらに、演奏の際に強調されがちだけれども実際は避けるべき音の例など、解釈上の細かい指摘も含まれており、実際に譜面と照らし合わせながら読むと発見の多い章になっています。

 

‣ 資料としても面白い記述

 

もう一つ興味深いのは、初演をめぐる記述です。この左手協奏曲自体の公式初演は1930年代前半にパウル・ヴィトゲンシュタインによって行われました。一方、Lau(1994)には、ラヴェルが1937年3月19日にシャルル・ミュンシュ指揮、ジャック・フェヴリエの独奏によって行われたパリでの演奏を、この作品の「真の初演」と考えていたという記述が紹介されています。

この逸話はあまり多くの資料には見られないもので、ラヴェルがこの作品の「初演」をどのように位置づけていたかを考えるうえで、資料的にも興味深い記述だと感じました。

 

‣ Chapter3を鵜呑みにしてはいけない理由

 

一方で、注意が必要なのが、Chapter3のレパートリー目録です。「珍しい作品を見つけた」と思っても、そのまま採用するのは危険で、筆者自身がChapter3の収録作品を他の資料と照合すると、いくつかの問題が見えてきました。

まず、左手パートが目立つ両手作品ならまだしも、左手に特段の工夫のない一般的な両手作品まで混入しているケースがあります。また、作品タイトルの表記が不正確であるなど、情報の扱いが正確ではない箇所も見受けられます。こうした点から、Chapter3をそのままレパートリー探索の一次資料として使うことはおすすめできません。

左手作品を体系的に探す目的であれば、Donald L. Pattersonによる「One Handed」(【ピアノ】「One Handed」(ドナルド・L・パターソン 編)レビュー)のような、より体系的に左手・片手作品を収録した資料と照合しながら使うことをおすすめします。

 

‣ Lau(1994)をどう位置づけるか

 

以上を踏まえると、Lau(1994)は「左手レパートリーの決定版」ではありません。しかし、左手音楽をどう捉え、どう演奏するかという研究としては非常に有益な内容を含んでいます。現代の視点から見ると、この論文は「左手作品を探すためのレファレンス」として使うべきものではなく、むしろ左手音楽を演奏者の身体的かつ音楽的な課題として捉える研究として価値を持つものだと言えるでしょう。

ラヴェル「左手のためのピアノ協奏曲」を実際に演奏・研究する方には、特にChapter1とChapter2が興味深い資料になるはずです。

 

► 終わりに

 

Lau(1994)は、左手作品のレパートリーを調べるための資料としては、現在の研究水準から見て慎重に扱う必要があります。しかし、ラヴェル「左手のためのピアノ協奏曲」を実際に演奏する立場から読むと、非常に興味深い研究だと感じました。特にChapter2では、ソロとオーケストラの音色的な対比、身体の使い方、運指、ペダリングなど、通常の楽曲解説だけでは見落とされやすい問題が扱われています。

その意味でLau(1994)は、単に「左手作品を探すためのレパートリー目録」ではなく、「左手一つでオーケストラと対峙するこの作品を、どのように演奏として成立させるのか」を考えるための研究資料として読む価値があるでしょう。

 

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