【ピアノ】片手作品の「献呈」に注目する:ロン・イェディディア「Grand Etude」

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【ピアノ】片手作品の「献呈」に注目する:ロン・イェディディア「Grand Etude」

► はじめに

 

片手のための作品には、しばしば特別な人物への献呈が添えられています。多くの場合、それは演奏家や、作曲を依頼した音楽家への敬意を表すものですが、今回取り上げるロン・イェディディア(Ronn Yedidia)の2つの練習曲には、少し変わった献呈のかたちが見られます。一つは、左手演奏で活動したピアニストを思い浮かべながら右手のために書かれた作品。もう一つは、作曲家自身が自分に捧げた左手作品です。

本記事では、この2曲を通して献呈という行為の奥にある物語を読み解いていきます。

 

► ロン・イェディディア とは

 

イェディディアは1960年、イスラエルのテルアビブで生まれました。8歳という若さでイスラエル青年演奏家コンクールを制した経歴を持ち、ピアノの巨匠アルフレッド・コルトーの弟子であったプニナ・ザルツマンに学んだ後、15歳を境に作曲へと関心を移していきます。ジュリアード音楽院ではデイヴィッド・ダイアモンドやミルトン・バビットのもとで研鑽を積み、1991年に作曲の博士号を取得しました。

現代音楽の主流とは異なる方向性を探求し、旋律や和声、劇的な対話性など、伝統的な音楽語法を重視した独自の作曲語法を築いています。

 

► 献呈が独特な片手作品

‣ 右手のための作品を、左手演奏を行うピアニストへ:Grand Etude No.1

 

※著作権保護期間中につき、譜例は掲載不可

 

1993年に生み出された「Grand Etude No.1(for the right hand)」は、右手のジストニアによって演奏活動に大きな制約を受けたピアニスト、レオン・フライシャーに捧げられました。フライシャーはこの症状のため長年両手でのレパートリーを封じられていましたが、のちに治療の進展によって機能を取り戻し、再び両手で舞台に立つようになった人物です。この曲は、自由を失っていた右手が能力を取り戻し、栄光の座へと帰っていく姿を思い描いた、いわば理想化された物語として構想されました。だからこそ、この作品は「右手のための作品を、左手演奏を行うピアニストへ」という、一見すると不思議な献呈になっているのです。

演奏時間は約5分半、難易度はツェルニー40番修了程度とされ、いくつもの調を巡りながら物語が展開していく構成になっています。もっとも興味深いのは、右手のために書かれたはずのこの曲が、左手のみでも演奏できるようになっている点でしょう(作曲者本人による解説より)。左手で演奏するフライシャーへの献呈でありながら、作品自体も左手で演奏できるようになっていることを考えると、単なる敬意の表明を超えて、フライシャーの演奏状況そのものを意識した作品だったことがうかがえます。

楽譜には「Moderato sensibile con rubato」という発想標語が置かれ、”sempre legato”や”con molto espressione”といった演奏指示が随所に見られます。感情の起伏を丁寧に描くための言葉が、譜面全体を通じて奏者を導いていく作りになっています。

 

‣ 左手のための作品を、自分自身へ :Grand Etude No.11「Tragic」

 

※著作権保護期間中につき、譜例は掲載不可

 

1996年に書かれた「Grand Etude No.11「Tragic」(for the left hand alone)」は、さらに異例な献呈のかたちをとっています。捧げられた相手は、作曲家自身なのです。イェディディア自身の解説によれば、この曲に流れる重く暗い響きを書き進めるうちに、自分自身の悲劇的な最期を思い描くようになったといいます。その体験を受けて、イェディディアはこの左手作品を、他の誰でもなく自分自身に献呈しました。

和声やピアニズムには、ラフマニノフを思わせる響きも感じられます。難易度はNo.1と同じくツェルニー40番修了程度。一人の人間が抱える苦悩と、それでもなお失われない気高さのようなものが感じられる作品です。曲の結末は、激しい感情の爆発ではなく、静かに消え入るような沈痛な嘆きをもって閉じられます。

発想標語は、Moderato profondo e buio、con rubatoの指定とともに曲が始まります。楽譜中には”tragico”、”più luminoso”、”profondo”、”fatale”などといった言葉が細かく書き込まれており、単純な強弱やテンポの指示に留まらない、詩的な情景を想起させるような指示が、随所に書き込まれています。

 

► 作曲家による公式情報と楽譜情報

 

作曲家による公式情報

作曲家ロン・イェディディアの公式サイトでは、「Grand Etude」を含む作品情報が掲載されています。

ロン・イェディディア公式HP

 

楽譜情報

「Grand Etude No.1」収録

 

『Grand Etude No.11「Tragic」』収録

 

► 終わりに

 

一つの作品を「誰かに贈る」という行為には、贈る側の願いや感謝、ときには祈りにも似た思いが込められています。フライシャーへ捧げられた「No.1」には、演奏の自由を失ったピアニストへの深い共感と、その自由を取り戻していく姿へのまなざしが感じられます。一方、自分自身へ捧げられた「No.11」には、作曲という営みがときとして、作曲家自身の内面と真正面から向き合う自己探求の行為にもなり得ることが表れているように思えます。

特に「No.1」のコンセプトは、片手作品という形式だからこそ成立する部分があり、「なぜ、この作品は片手である必要があるのか」という音楽的な意味が伴っている点で、興味深いものと言えるでしょう。

献呈という一見形式的な習わしの奥に、これほど個人的な物語が潜んでいることを知ると、片手ピアノ作品を聴く楽しみが、また一つ増えるのではないでしょうか。

 

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この記事を書いた人
タカノユウヤ

左手・片手のためのピアノ音楽を専門とし、作曲・編曲、講演などを行っています。また、当サイト「One-Hand Piano Institute」を運営し、作品・作曲家・音楽史・技術(作曲・編曲・演奏)・楽譜・文献まで、片手で演奏するピアノ音楽を多角的に紹介しています。

日本音楽コンクールをはじめ、国内外の作曲コンクールで受賞歴を持ち、これらの受賞作品はいずれも、左手ピアノを編成に含むアンサンブル作品、および、左手のためのピアノ独奏作品です。
また、大学院では左手のためのピアノ音楽における作曲・編曲をテーマに研究し、首席で修了しています。

右手の負傷をきっかけに出会った左手のためのピアノ音楽に心惹かれ、以来15年以上、この分野に取り組んできました。左手音楽の魅力と可能性を、より多くの方に知っていただけたら嬉しく思います。

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