【ピアノ】サン=サーンス「左手のための6つの練習曲 Op.135」:作品の背景とエチュードとしての価値

【ピアノ】サン=サーンス「左手のための6つの練習曲 Op.135」:作品の背景とエチュードとしての価値

► はじめに

 

左手のためのピアノ作品というと、ラヴェルの左手協奏曲やブラームスの編曲作品などが有名ですが、サン=サーンスにも「左手のための6つの練習曲 Op.135」という知る人ぞ知る名曲があります。本記事では、この作品がどのような経緯で生まれ、どんな技術的な狙いを持って書かれているのかを、エチュード(練習曲)としての側面から掘り下げていきます。単なる指の訓練用の曲ではなく、演奏会でも通用する音楽性を備えた曲集であることが、読み進めていただくと分かってくることでしょう。

なお、サン=サーンス自身、この曲集を「エチュード」と呼ぶことには最後まで迷いがあったようです。出版直前にタイトルを変更したほか、書簡の中では「小品(petites pièces)」「前奏曲集(préludes)」「片手のための小品(morceaux pour une seule main)」、さらには「左利き風の(sinistresque)小品」といった具合に、その都度呼び方を変えていました。このあたりにも、この曲集が単なる指の訓練用エチュードには収まりきらない性格を持っていることがうかがえます。

 

► 作品の概要

‣ 作曲年・難易度・構成

 

この曲集は1912年、サン=サーンスがエジプト(ルクソール〜カイロ)に滞在していた1〜2月にかけて作曲され、同年5月にデュラン社から出版されました。全6曲を通しで演奏すると約18分ほどかかり、難易度としてはツェルニー40番の中盤以降が目安になります。

構成は以下の6曲からなっています:

1. Prélude(前奏曲)
2. Alla Fuga(フーガのように)
3. Moto Perpetuo(無窮動)
4. Bourée(ブーレ)
5. Élégie(エレジー)
6. Gigue(ジーク)

 

‣ 書簡から分かる作曲の経緯

 

この曲集の成立経緯については、2022年に出版された校訂版(Bärenreiter版、校訂:Catherine Massip)の序文で、サン=サーンスと出版社デュラン(Jacques Durand)との往復書簡、および献呈者本人との書簡に基づいて、かなり具体的に明らかにされています。

それによると、Op.135は、サン=サーンスの長年の友人であり、彼の作品の名手として知られたピアニスト、カロリーヌ・モンティニー=レミュリー(結婚後の姓でカロリーヌ・ド・セール、1843-1913)からの依頼によって生まれた作品です。1912年1月、エジプトに滞在中だったサン=サーンスは、出版社デュラン宛ての手紙で、ド・セールが何らかの手術のため入院していたことを伝えています。同年2月にはデュラン、および出版準備を担当していたガストン・ショワネル宛ての手紙で、「不幸な出来事に見舞われたド・セール夫人から、左手だけのための小品を書いてほしいと頼まれた。彼女のために小さな曲集を書くつもりだ」という趣旨を明かしており、これがOp.135誕生の直接のきっかけとなりました。

当のド・セール自身も、届いた手稿を練習しながらサン=サーンスに手紙を書き送っています。その中で彼女は、「右腕はまだ痛みがあり重く、あなたの作品以外に何かに取り組むことはできない」と綴っており、右腕の不調のために左手だけで弾ける作品を必要としていたことが分かります。

なお、この手紙にはド・セール邸を訪れたルイ・ディエメ(1843-1919)が完成前の手稿を目にしたというエピソードも記されており、彼女は「最後の曲(ジーク)はあなた(ディエメ)のために」と語ったとも伝えられています。ただし、これはあくまで挿話の域を出るものではなく、ピアニストのロベール・カサドシュが回想したという「サン=サーンスがディエメの12人の弟子たちのために6曲を書き分け、カサドシュ自身はブーレを任された」という逸話とは、史料的な裏付けの厚みという点で分けて考える必要がありそうです。書簡から具体的に跡づけられる限りでは、Op.135はあくまでド・セール個人のために書かれた作品と見るのが妥当でしょう。

 

‣ 献呈者ド・セールとは

 

ド・セールは、単に「右腕を痛めたピアニスト」というだけの人物ではありません。サン=サーンスの交響詩「死の舞踏 Op.40」(1874年)の献呈を受けた人物であり、ベートーヴェンやシューマンの協奏曲などを携えてロンドン、ジュネーヴ、マドリード、ウィーン、モスクワ、ブリュッセルなど各地のオーケストラと共演した、国際的に活躍する名手でした。

1885年の彼女の結婚に際しては、サン=サーンス自らオルガンを演奏し、「結婚式のケーキ Op.76」を献呈するなど、二人は音楽家として、また長年の友人として深い信頼関係で結ばれていたことがうかがえます。

 

‣ 出版までの経緯

 

作曲後、サン=サーンスはパリに戻ってから運指付けの作業に取りかかり、1912年4月頃、出版譜のための写譜に自ら丹念な校訂を加えました。写譜資料には、アーティキュレーションなどの指示が朱色のインクで細かく書き込まれており、サン=サーンスがこの曲集の仕上げに相当な注意を払っていたことが分かります。

5月には運指付きの初版が完成し、療養中だったド・セールのもとに届けられました。

 

‣ 初演と演奏史

 

なお、この曲集の初演について確かな記録は残っておらず、サン=サーンス自身が演奏会でこれを取り上げたという証言も見つかっていません。存命中の録音も現存しないようです。

曲集の中でも「ブーレ」は比較的早くから評価され、1912年11月にはピアニストのエドゥアール・リスラーがローザンヌで演奏しています。サン=サーンスの没後には、ラヴェルの「左手のための協奏曲」の献呈を受けたパウル・ヴィトゲンシュタインが、1933年11月、パリ交響楽団との演奏会で「ブーレ」を取り上げるなど、時代を超えて命脈を保っている一曲と言えます。

 

‣ 楽曲の性格

 

この曲集は両手で弾いているような分厚い響きを聴かせることを目的とはしていません。和音を敷き詰めてハーモニーで満たすというよりも、対位法的な発想を取り入れながら「線」を描くように音楽が組み立てられているのが特徴です。第5曲ではより和声的な書法が前面に出ますが、それ以外の各曲では、対位法的な発想を取り入れながら「線」を描くような書法が一貫して見られます。

全6曲は練習曲でありながら、一つの流れを持った近代的な組曲としても楽しめる構成になっています。実際、6曲のうち4曲(前奏曲、フーガのように、ジークがG-dur、ブーレがg-moll〜G-dur)で調性が統一されており、これは古典組曲によく見られる統一原理を意識したものと考えられます。曲名にも「ブーレ」「ジーク」など古い舞曲の名が用いられているように、サン=サーンスが愛好したフランス組曲の様式を下敷きにしている点も、この曲集の性格を理解するうえで見逃せないポイントでしょう。

 

► 左手作品におけるエチュードの3タイプ

 

左手だけで演奏するために書かれたエチュードに関して、本サイトでは、便宜上次の3タイプに分類しています。

 

‣ タイプ①:技術訓練を第一目的としたもの

 

音を機械的に羅列したり、同じパターンを無味乾燥に反復させたり、あるいは身体的にあえて弾きにくく作られているタイプ。ベレンスの「左手のトレーニング Op.89 第1部」や、ボナミーチの「左手のための100の練習曲と153の多様なパッセージ Op.271」などがこれにあたります。

 

ベレンス「左手のトレーニング Op.89 より 第1部 第3曲」

譜例(PD作品、浄書ソフトで作成、1-3小節)

ベレンス「左手のトレーニング Op.89 第1部 第3曲」冒頭の楽譜。

 

ボナミーチ「100の練習曲集 シリーズ1 より 第1番」

譜例(PD楽曲、浄書ソフトで作成、1-3小節)

ボナミーチ「100の練習曲集 シリーズ1 より 第1番」1-3小節

 

‣ タイプ②:演奏会用作品として成立しているもの

 

作曲家自身が「エチュード」と名付けてはいるものの、表情記号や曲の展開など、音楽的な要求が多く盛り込まれているタイプ。技術的な訓練の要素が全くないわけではありませんが、それが主目的とは考えにくい作品群になります。ブルーメンフェルドの「左手のための練習曲 Op.36」や、レーガーの「左手のための4つの特別な練習曲」がこの例にあたります。

 

ブルーメンフェルド「左手のための練習曲 Op.36」

譜例(PD楽曲、浄書ソフトで作成、1-2小節)

ブルーメンフェルド「左手のための練習曲 Op.36」冒頭部分の楽譜。タールベルク的奏法も含む左手独奏作品。

 

レーガーの「左手のための4つの特別な練習曲 より 第4曲」

譜例(PD作品、浄書ソフトで作成、1-2小節)

レーガー「左手のための4つの特別な練習曲 より 4.前奏曲とフーガ  前奏曲」1-2小節

 

‣ タイプ③:他作品からの抜粋を編纂したもの

 

既存の楽曲の一部を数小節だけ抜き出し、特定の技術に焦点を当てて左手用にまとめたタイプ。原曲からの抜粋に留まるため、作品全体としての音楽的完結性という点では、タイプ②ほど重視されていませんが、機械的な訓練を目的とするなら、タイプ①よりも飽きずに取り組める可能性があります。パウル・ヴィトゲンシュタインの「左手のためのピアノ教則本 第2巻」や、ジョン・W・ショームが編曲した「LEFT HAND SOLOS for the piano」の一部の作品などが代表例です。

 

ヴィトゲンシュタイン「左手のためのピアノ教則本 第2巻 より ベートーヴェン Op.10-3 の編曲」

譜例(PD作品、浄書ソフトで作成、1小節目)

ヴィトゲンシュタイン「左手のためのピアノ教則本 第2巻 より ベートーヴェン Op.10-3 の編曲」1小節目

 


 

この分類に照らすと、サン=サーンスのOp.135は全体としてはタイプ②に位置づけられる作品と言えるでしょう。ただし、6曲それぞれの中には、様々な技術的な訓練要素もしっかりと含まれています。

 

► 各曲に含まれる技術的な訓練要素

 

以下の譜例に含まれる運指やペダリングは、すべてサン=サーンス自身による指示です。パリに戻った作曲家は、出版用の写譜に自らアーティキュレーションを朱色のインクで丹念に書き込んだうえで運指を付けており、この曲集の仕上げに相当な労力を注いだことが書簡からも分かっています。

 

‣ Ⅰ. Prélude(前奏曲)

 

譜例(PD作品、浄書ソフトで作成、1-3小節)

サン=サーンス「左手のための6つの練習曲 Op.135 より 前奏曲」冒頭部分の楽譜。

音価や音型を変化させながら展開する分散和音の扱いや、1本の指を伸ばしたまま他の指でスタッカートを弾く技術が中心になっています。

 

‣ Ⅱ. Alla Fuga(フーガのように)

 

譜例(PD作品、浄書ソフトで作成、1-6小節)

サン=サーンス「左手のための6つの練習曲 Op.135 より フーガのように」冒頭部分の楽譜。

ある程度速いテンポの中で2つの声部を弾き分ける力が問われます。旋律とスタッカート、旋律とシンコペーションなど、声部ごとに異なるアーティキュレーションやリズムを弾き分ける能力が登場するのも特徴です。

 

‣ Ⅲ. Moto Perpetuo(無窮動)

 

譜例(PD作品、浄書ソフトで作成、1-4小節)

サン=サーンス「左手のための6つの練習曲 Op.135 より 無窮動」冒頭部分の楽譜。

曲集の中で最も指の運動性が求められる曲で、和音は一切登場しません。速めのテンポを保ちながら、16分音符の動きを様々な強弱の中で一貫させる訓練になっています。

 

‣ Ⅳ. Bourée(ブーレ)

 

譜例(PD作品、浄書ソフトで作成、1-4小節)

サン=サーンス「左手のための6つの練習曲 Op.135 より ブーレ」冒頭部分の楽譜。

Molto allegroのテンポの中で、広い音域にまたがる分散和音を扱います。ここまでの3曲で培った技術を総合的に活かす、いわば集大成のような一曲と言えるでしょう。

なお、この「ブーレ」は6曲の中でも早くから評価が高く、作曲家の没後もパウル・ヴィトゲンシュタインらによって演奏会で取り上げられるなど、曲集を代表する一曲になっています。

 

‣ Ⅴ. Élégie(エレジー)

 

譜例(PD作品、浄書ソフトで作成、1-5小節)

サン=サーンス「左手のための6つの練習曲 Op.135 より エレジー」冒頭部分の楽譜。

曲集全体の中でもっとも「楽曲らしさ」が強く、作曲家による音楽的な要求も一番多く見られる曲です。アゴーギクと結びついた広い和音のアルペッジョの扱いや、重音を含む分散和音の技術が、とりわけ重要なポイントになります。

 

‣ Ⅵ. Gigue(ジーク)

 

譜例(PD作品、浄書ソフトで作成、1-5小節)

サン=サーンス「左手のための6つの練習曲 Op.135 より ジーク」冒頭部分の楽譜。

Prestoのテンポの中で、強弱の変化を伴うスタッカートの弾き分けが求められます。アクセントの付け方をコントロールする技術も、この曲の大きな訓練要素です。

なお、この最終曲については、ド・セール邸で手稿を目にしたルイ・ディエメに宛てて書かれたものだ、という逸話も書簡に残されています。

 

► 左手演奏における重要ポイントとの関連

 

左手のみでの演奏において、脱力をはじめとし、技術的に重要とされる要素はいくつかあります。例えば、左手演奏では次のような技術が重要になります:

・声部の弾き分け
・ダンパー・ペダルの使用法
・1の指でとる旋律の扱い方
・アルペッジョ、装飾音符、広範囲和音の入れ方
・手の横方向への跳躍

 

これらとOp.135との関連を見てみましょう。

声部の弾き分けについてはⅠ、Ⅱ、Ⅴが特に良い練習になっています。

ダンパー・ペダルについては、そもそもサン=サーンス自身が「指示するというより示唆するに留める」という作風の持ち主であり、Op.135でもこの姿勢が貫かれています。そのため、デュラン版に見られるペダル指示は控えめで、この技術を深く学ぶためのエチュードとしてはやや物足りない印象です。同様に、1の指でとる旋律も全曲にわたって頻出しますが、これも左手作品では頻繁に要求される要素と言えるでしょう。

アルペッジョや装飾音符、広範囲和音の扱いに関してはⅤが特に充実しています。一方、手の横方向への跳躍についてはⅣが良い教材になっています。

なお、運指については、サン=サーンス自身がパリに戻ってから丹念に書き込んだものであることが書簡から分かっていますが、それでも運指そのものを体系的に学ぶための構成にはなっていません。この点に関して、ゴドフスキーは極めて詳細な運指を書き込む作曲家であり、運指そのものを研究する教材としては、Op.135よりも適しています。

 

► エチュード・教材としての意義

 

ここまで見てきた内容を踏まえると、Op.135がエチュードや教材として果たす役割には、いくつかの側面が考えられます:

・各曲に含まれる個別の技術を磨くための教材として使う
・演奏会用のレパートリーを広げながら、必要な技術も同時に身につける
・「近代的な組曲」という応用的な楽式を理解するための教材として活用する

左手のための作品には、そもそも取り組みやすい難易度の曲が少ないという事情があります。その点、Op.135の6曲は、演奏面でも作曲面でも極端に困難な動き(拍の頭ごとに広い和音が連続する、あるいは2声部が同時に高速で動くといった箇所 など)が見当たりません。そのため、左手作品の世界に足を踏み入れた後の初級後半〜中級程度における教材としても、十分に価値のある曲集だと言えるでしょう。

一方で、様々な技術的要素が盛り込まれてはいるものの、左手演奏に必要な技術を網羅的にカバーする練習曲集というわけではありません。この曲集だけで左手演奏のすべてを学べるわけではなく、あくまで演奏会用作品としての魅力を軸に、必要な技術がバランスよく散りばめられている、という位置づけで捉えるのが適切です。

 

► 終わりに

 

サン=サーンスのOp.135は、単に指の訓練用に書かれた曲集ではなく、右腕を痛めた長年の友人ド・セールのために、片手だけでどこまで音楽的な深みを表現できるかという作曲家自身の探求心が形になった作品です。技術と音楽性を両立した左手作品として、現在でも十分に学ぶ価値のある曲集と言えるでしょう。

 

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