【ピアノ】Ruby Morgan「An Anthology of Piano Music for the Left Hand Alone」完全ガイド

【ピアノ】Ruby Morgan「An Anthology of Piano Music for the Left Hand Alone」完全ガイド

► はじめに

 

今回紹介するのは、アメリカのピアニスト・教育者であるRuby Morganが編纂した楽譜集「An Anthology of Piano Music for the Left Hand Alone」です。全167ページにおよぶこのアンソロジーには、定番の名曲から近年まで出版されていなかった作品まで、19世紀から現代に至る幅広い左手作品が収められています。

本記事では、編者Ruby Morganの人物像から曲集全体の特色、収録曲一覧、そして注目すべき編曲のポイントまで、この楽譜集を選ぶ・学ぶうえで役立つ情報を一つにまとめました。

※解説などの文章は英語で書かれています。輸入楽譜のため、日本語訳は付属していません。

 

► 曲集の内容

‣ 編者 Ruby Morganとは

 

Ruby Morganは、ソリストとして、また室内楽奏者として20年以上のキャリアを重ねてきましたが、その途中でフォーカル・ジストニア(局所性ジストニア)を発症しました。この疾患は、巻頭でも紹介されているゲイリー・グラフマンやレオン・フライシャーらも経験したことで知られています。

彼女はその後、左手のみのリサイタルを行うようになり、ラヴェルの「左手のための協奏曲」やヤナーチェクの「左手ピアノと管楽アンサンブルのためのカプリッチョ」なども演奏してきました。教育者としてはFurman Universityでピアノ科の教授職を長年務め、Brevard Music Centerでも指導にあたっています。この曲集は、単なる編纂者ではなく、自らも左手だけで舞台に立ってきた奏者の視点から作られた一冊と言えます。

 

‣「左手のためのピアノ音楽」という系譜について

 

巻頭のIntroductionでは、左手作品が生まれてきた背景として、大きく4つの動機が整理されています。1つ目は技術鍛錬のための練習曲としての側面で、ツェルニーやクラマーなどの「両手で」演奏する左手の訓練を目的としたエチュード、そしてショパンの「革命のエチュード」を経て、ゴドフスキーによる「ショパンのエチュードによる練習曲 より 左手独奏編曲 全22曲」へとつながる流れです。2つ目は、ロマン派時代の演奏会が一種の見世物的性格を帯びていたことを背景に、ドライショクやフマガッリのようなピアニストたちが自らの個性を打ち出すために左手作品を用いた、という側面。3つ目は、作曲家自身が創作上の制約として「左手のみ」という条件を課し、新たな音楽表現を追求した作品群です。

そして4つ目、最も重要な作品群を生み出したのが、事故や戦争によって右手を失ったピアニストたちのために書かれた作品群。最初の隻腕コンサートピアニストとされるジチー(狩猟中の事故で右腕を負傷した人物)、そして第一次大戦での負傷がきっかけで右腕を失ったヴィトゲンシュタインの名が、その代表として挙げられています。ヴィトゲンシュタインはラヴェル、プロコフィエフ、リヒャルト・シュトラウスなど錚々たる作曲家に作品を委嘱し、左手ピアノ音楽の地位を大きく高めた人物として知られます。

この曲集は、こうした歴史的な文脈を踏まえたうえで編まれている点が特徴と言えるでしょう。

 

‣ この曲集ならではの特色

 

左手作品のアンソロジーとしては、これまで日本で広く知られてきたRaymond Lewenthal編「Piano Music for One Hand:A COLLECTION OF STUDIES, EXERCISES AND PIECES」が長らく代表的な存在でしたが、近年では、このMorgan版も左手作品の代表的なアンソロジーの一つとして知られるようになってきました。Lewenthal版と比べたときの大きな違いは、20〜21世紀の作品が数多く含まれている点、そして1曲ごとの解説が丁寧で分量も多い点です。

学習者への配慮も細やかで、運指やペダリングの指定が随所に書き込まれ、ハーフペダルを明記している箇所まであります。装飾音のトリルについても、単なる記号表記に留めず実際に弾く音符として書き出してくれている部分があり、この分野の作品に初めて取り組む奏者にとっても読みやすい版に仕上がっています。

歴史的な定番作品と現代作品をバランスよく収録し、さらに実用的な校訂を加えている点こそが、このアンソロジーの魅力と言えるでしょう。

なお、製本はリング綴じで、譜面台に置いて開きやすい反面、耐久性の面では少し気になる方もいるかもしれません。

 

‣ 収録曲一覧

 

作曲家 作品 ページ
J.S.バッハ ピアノのための5つの練習曲 より J.S.バッハのシャコンヌ(ブラームス&Ruby Morgan編) 21
J.S.バッハ J.S.バッハ「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第3番 ホ長調 BWV1006 より ガヴォット」(ヨゼフィ&Ruby Morgan編) 36
バルトーク 4つのピアノ曲 より 左手のための練習曲 BB27 40
ブルーメンフェルド 左手のための練習曲 Op.36 53
ブリッジ 左手のための3つのインプロヴィゼーション 62
ゴドフスキー ショパンのエチュードによる練習曲 より No.41 Op.25-10 72
ゴドフスキー ショパンのエチュードによる練習曲 より No.44 3つの新しいエチュード No.1 80
コリリアーノ エチュード・ファンタジー より 第1曲 83
ドホナーニ 左手のために(「上級ピアニストのための12の小練習曲集 第7番」より) 91
モンポウ 6つの前奏曲 より 第6番(左手のために) 96
レーガー 左手のための4つの特別な練習曲 より 4.前奏曲とフーガ 99
サン=サーンス 左手のための6つの練習曲 Op.135 より 4.ブーレ 104
シューベルト 「君は憩い」D.776(リスト編を土台とした左手独奏版をもとにRuby Morganが再編) 128
シュールホフ 左手のための組曲 第3番 より アリア、ツィンガラ 131
スクリャービン 左手のための2つの小品 Op.9 137
スロニムスキー パガニーニによる左手のためのコンサート・エチュード 144
ワーグナー イゾルデの愛の死(リスト編を土台とした左手独奏版をもとにRuby Morganが再編) 150
アール・ワイルド 左手独奏のためのエチュード 第3番(ガーシュウィン「ザ・マン・アイ・ラヴ」に基づく) 159
ルース・S・ワイリー 左手のためのソリロクイ(独白) Op.23 163

 

※ページ番号は2021年版に基づきます。

 

‣ 注目編曲

· 注目編曲①:J.S.バッハ「シャコンヌ」(BWV1004 より)

 

左手版シャコンヌの系譜は19〜20世紀で終わったわけではなく、現在も新たな校訂・出版が続いています。Morgan版の巻頭解説では、有名なウィトゲンシュタイン版を「ブゾーニのフィルターを通したブラームス」と表現し、ロマン派的な様式美と華麗なピアノ書法への志向が色濃く反映された編曲だと位置づけています。

これを踏まえてMorgan自身がまとめた版は、ブラームス版を土台としながらウィトゲンシュタイン的な発想も部分的に採り入れ、さらにバッハの自筆譜が示すフレージングにも立ち返るという、いわば両者の折衷案とも言える編曲になっています。音数の面ではブラームス版より多く書き足されているものの、大胆に書き換えたウィトゲンシュタイン版ほどの改変幅はなく、原曲の骨格を保ったまま無理のない範囲で拡張された、バランスの取れた校訂版と言えるでしょう。

 

· 注目編曲②:J.S.バッハ「ガヴォット」(BWV1006 より)

 

J.S.バッハ「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第3番 ホ長調 BWV1006 より ガヴォット」の左手独奏編曲も収録されています。ベースとなっているのはヨゼフィ版で、Morganがそこにさらに改訂を加えました。

主な変更点としては、演奏上のネックとなっていた装飾音の整理・削減、ヴァイオリン原典が持つアーティキュレーションの積極的な反映、そしてリュート編曲とされるBWV1006aの要素を部分的に取り込んでいる点が挙げられます。演奏しにくさで知られてきた過去の編曲を、現代の奏者が扱いやすい形に再構成している点が興味深い一曲です。

 

· 注目編曲③:スロニムスキー「パガニーニによる左手のためのコンサート・エチュード」

 

この曲集には、Morganのアンソロジーで初めて世に出た作品も含まれています。その代表例が、セルゲイ・スロニムスキー(1932-2020)による「パガニーニによる左手のためのコンサート・エチュード」です。

ハーバート・アクセルロッドとイヴリン・アクセルロッド夫妻の委嘱により、ゲイリー・グラフマンのために書かれた作品です。2000年に作曲されましたが、2021年にこのアンソロジーへ収録されるまで出版されていませんでした。

 

► 楽譜情報

 

Ruby Morgan編「An Anthology of Piano Music for the Left Hand Alone」

左手作品を体系的に学びたい方や、Lewenthal版とは異なるレパートリー・校訂に触れてみたい方におすすめの一冊です。

 

► 終わりに

 

Ruby Morganによる「An Anthology of Piano Music for the Left Hand Alone」は、単に左手作品を寄せ集めただけの曲集ではありません。編者自身がフォーカル・ジストニアを経験した奏者であることもあり、運指やペダリングの書き込み、装飾音の書き出しといった学習者目線の配慮が随所に見られます。加えて、シャコンヌやガヴォットのように歴史的名編曲を再検討した作品、スロニムスキーのようにこのアンソロジーで初めて出版された作品まで、幅広い切り口で左手のレパートリーを見渡せる構成になっています。

定番のゴドフスキー編ショパンやサン=サーンスの練習曲群だけでなく、バルトーク、コリリアーノ、アール・ワイルドといった20〜21世紀の作品も充実しているため、Lewenthalのアンソロジーとはまた違った角度から左手作品を学びたい方にとって、有力な選択肢となる一冊と言えるでしょう。

 

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