【ピアノ】パウル・ヴィトゲンシュタイン 完全ガイド:右腕を失ったピアニストが切り拓いた「左手音楽」の世界
► はじめに
左手ピアノ音楽の歴史を語るうえで、パウル・ヴィトゲンシュタイン(Paul Wittgenstein, 1887-1961)の存在を抜きにすることはできません。第一次世界大戦で右腕を失いながらも演奏家としての道を諦めず、自らの財力を背景に、同時代の名だたる作曲家たちに新作を委嘱し続けたピアニストです。
本記事では、そんなヴィトゲンシュタインの生涯と、彼が音楽史に遺した「左手音楽」という財産をまとめました。個々の委嘱作品や関連するトピックについては、より詳しく掘り下げた記事も別途用意しているので、気になる項目があれば、そちらもあわせてご覧ください。
► ヴィトゲンシュタインという人物
‣ 恵まれた家系に生まれて
1887年11月5日、ウィーンの裕福な実業家一族に生まれたヴィトゲンシュタインは、幼少期から恵まれた環境で育ちました。父はアメリカで財を成した「鉄鋼王」で、ヴィトゲンシュタイン家のサロンには、ブラームスをはじめとする当時の文化人が集っていたと伝えられています。なお、哲学者ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインは彼の弟にあたります。
レシェティツキーに師事したヴィトゲンシュタインは、26歳でウィーン・デビューを飾り、翌シーズンにはウィーン交響楽団と共演するソリストとしての地位を早くも確立していました。
‣ 戦争による負傷と、片腕での再出発
順調なキャリアの矢先、第一次世界大戦への従軍によって彼の人生は一変します。ポーランド国境付近で重傷を負い、右腕を切断せざるを得なくなりました。その後ロシア軍の捕虜としてシベリアの収容所に送られましたが、そこで見つけたピアノで練習を続けていたというエピソードが残っています。
ウィーンに戻ったヴィトゲンシュタインは、ピアノを諦めようとはしませんでした。師レシェティツキーはすでに他界していたため、彼はレッスンで学んだことを胸に、独りで長時間の練習を重ねていったといいます。本人いわく「山を登るようなもので、一つの道で行き詰まれば、別の道を試すしかない」という心境だったそうです。
問題は、片手で弾けるレパートリーがあまり多くは存在しなかったことでした。図書館を巡って先行する片手作品を探すなかで、彼はジチー(Géza Zichy)の存在を知りますが、その作風には満足できなかったようです。一方で、ブラームス編のJ.S.バッハ「シャコンヌ」や、サン=サーンスの練習曲、レーガーの練習曲、スクリャービンの叙情的な前奏曲と夜想曲には強く惹かれ、これらを自身のレパートリーの核としました。ゴドフスキーの技巧的なショパン・パラフレーズにも魅了されていたと伝えられています。
‣「委嘱」という選択
既存の片手レパートリーだけでは足りないと悟ったヴィトゲンシュタインが選んだのが、豊富な資産を活かして作曲家に新作を依頼するという道でした。つまりヴィトゲンシュタインは、「既存のレパートリーから演奏する曲を探す」のではなく、「自分のための新しいレパートリーを作曲家に書いてもらう」という発想へと踏み出したのです。
1916年、恩師でもあった作曲家ヨーゼフ・ラーボアの作品などで舞台に復帰すると、以降、ガル、ブリヒト、コルンゴルト、シュミット、リヒャルト・シュトラウスといった1920年代ウィーン楽壇の錚々たる顔ぶれに次々と作品を依頼していきます。
背景には、片腕のピアニストにとって協奏曲や室内楽のほうが独奏曲より活路を見出しやすいという実践的な判断もあったようです。オーケストラや他の楽器が音の厚みを補ってくれる編成であれば、作曲家側に独奏曲ほどの特殊な書法を求めずに済むという考え方があったとされています。そして、著名な作曲家による新作協奏曲の初演は、それ自体が大きな話題となりました。
こうしてヴィトゲンシュタインは国際的な演奏家として活動を続けました。全盛期には、ワルター、メンゲルベルク、モントゥー、フルトヴェングラー、クライバー、クーセヴィツキー、オーマンディといった名指揮者のもとでソリストを務め続けました。
ヴィトゲンシュタインのために書かれた作品は、編成や完成度、出版状況などをどこまで含めるかによって数え方が異なりますが、約40曲にのぼるとされています。「私自身に特別な功績があるわけではないが、おそらく私は、これほど多くの特別な作品を書いてもらったピアニストである」と、本人も語っていたようです。
► ヴィトゲンシュタインのために書かれた主な委嘱作品
ここでは、ヴィトゲンシュタインへの委嘱によって生まれた代表的な作品を、作曲家ごとに紹介します。
‣ コルンゴルト:もっとも早い時期の大規模委嘱
「ピアノ協奏曲 嬰ハ長調 Op.17」(1922年委嘱・1923年完成)は、ヴィトゲンシュタインがラヴェルやプロコフィエフらに委嘱するよりも前、最初期に依頼した大規模作品です。1895年のジチーの協奏曲に続く「史上2番目」の左手協奏曲とも位置づけられており、初演はコルンゴルト自身の指揮のもと、1924年にウィーンで行われました。ヴィトゲンシュタインが1961年に没するまで演奏権を独占し続けたため、この曲は長らく忘れられた存在となりますが、1980年代にゲイリー・グラフマンが取り上げたことで、再び国際的なレパートリーへと戻ってきました。
譜例(PD作品、浄書ソフトで作成、1小節目)

コルンゴルトはこの曲を気に入ったヴィトゲンシュタインからの信頼を得て、続けて「2つのヴァイオリン、チェロと左手ピアノのための組曲 Op.23」(1930年)も手がけています。ピアノ独奏だけで31小節にわたる序奏を担う第1楽章など、片手であることを感じさせない大作に仕上がっています。
譜例(PD作品、浄書ソフトで作成、第1楽章 1-2小節)

‣ フランツ・シュミット:室内楽と唯一の独奏曲
フランツ・シュミットは、ヴィトゲンシュタインのために3曲のピアノ五重奏曲、2曲のピアノと管弦楽のための作品、そして独奏用のトッカータを書き残しています。左手独奏曲としては、「左手のためのトッカータ ニ短調」(1938年)が唯一の作品にあたり、無窮動的な書法にバロック的な乾いた響きと近代的な和声が同居する一曲です。
譜例(PD作品、浄書ソフトで作成、1-2小節)

室内楽の代表作である「ピアノ五重奏曲 ト長調」(1926年初演)は、ヴィトゲンシュタインが実際に演奏し、左手版として出版された数少ない例の一つです。
後年、フリードリヒ・ヴューラーがシュミットの死後に両手版へ編曲した際、独占的な演奏権を主張するヴィトゲンシュタインと関係者との間で激しい確執が生じました。シュミットの遺族との感情的な争いだけでなく、編曲者であるヴューラー本人とも音楽的・権利的な定義をめぐって確執・対立があったようです。最終的には、「もともとヴィトゲンシュタインのために左手用に書かれた作品であり、彼の許可を得て編曲された」旨を明記することを条件に、出版が認められました。
‣ ヒンデミット:80年以上眠り続けた協奏曲
1922年の委嘱を受けてヒンデミットが書いた「左手のためのピアノと管弦楽のための協奏曲 Op.29」は、完成から実に80年以上も日の目を見なかった作品です。ヒンデミットは楽譜に添えた手紙で「最初は戸惑われるかもしれないが、シンプルで問題のない曲だ」という趣旨を伝えていましたが、ヴィトゲンシュタインはこの曲を一度も演奏しませんでした。
自筆譜のピアノ独奏部分は失われてしまい、2002年になってようやくヒンデミット財団に写譜が保管されていることが判明します。そこから校訂・復元作業が進められ、2006年に初めて出版譜として世に出ました。
‣ ラヴェル:左手音楽を「独立したジャンル」へ押し上げた一曲
1929年のウィーンでの出会いをきっかけに生まれた「左手のためのピアノ協奏曲」(1930年完成)は、ヴィトゲンシュタインの委嘱作品群の中でも突出して有名な一曲です。ラヴェルは「左手のために書かれたと分からせたくない」という姿勢で作曲に臨み、サン=サーンスやアルカン、スクリャービンといった先行する左手作品を丹念に研究したうえで、協奏曲としての本格的な密度を作品に持たせようとしました。
しかしヴィトゲンシュタインは独自の解釈で楽譜に手を加えて演奏し、これに納得できないラヴェルとの間で大きな軋轢が生まれます。「演奏家は皆、多少の手直しをするものだ」と主張するヴィトゲンシュタインに対し、ラヴェルはこの改変に納得しなかったと伝えられています。この確執こそが、かえって「作曲家が守り抜きたかった作品」という評判を後世に残す結果となったとも言えるでしょう。
譜例(PD作品、浄書ソフトで作成、ソロの初導入部 29-33小節)

※ラヴェル自身によるピアノ伴奏版編曲(ソロ+ピアノ伴奏形式:2台ピアノ)から浄書
この曲についてさらに詳しく知りたい方は、以下の記事もご覧ください。
【ピアノ】なぜ、ラヴェルの左手協奏曲は傑作なのか?:左手音楽史から読み解く
‣ プロコフィエフ:25年間眠り続けた協奏曲
1931年に完成した「ピアノ協奏曲 第4番 Op.53」は、委嘱者本人によって拒絶されてしまった不運な作品として知られています。ヴィトゲンシュタインはプロコフィエフへの返信で「一音も理解できず、演奏するつもりはない」という趣旨を伝えたとされ、楽譜は出版されないまま長く眠り続けることになりました。
この状況を動かしたのが、第二次世界大戦で右手を負傷したドイツのピアニスト、ジークフリート・ラップです。1950年頃、ラップはヴィトゲンシュタイン本人に演奏許可を求め、最終的に承諾を得て、作曲から25年後の1956年、ベルリンでようやく世界初演を実現させました。
原曲譜例(PD楽曲、浄書ソフトで作成、1-4小節)

ラップの活動と、この初演をめぐる詳しい経緯については、以下の記事にまとめています。
‣ ブリテン:「模倣しない」という選択
1940年、ニューヨークでヴィトゲンシュタインと出会ったブリテンが手がけたのが、「左手ピアノと管弦楽のための主題と変奏 ディヴァージョンズ Op.21」です。ブリテンはラヴェルとは正反対のアプローチを取り、「両手のテクニックを模倣しようとはしなかった」と明言しています。単一の旋律線が持つ可能性を、変奏ごとに異なる角度から追求するという方針で書かれました。
初演は1942年、オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団とヴィトゲンシュタインのピアノによって行われました。ヴィトゲンシュタインはこの曲についても、オーケストレーションが厚すぎるという不満を口にしましたが、ブリテンは一切の変更に応じなかったと伝えられています。
ラヴェルとブリテン、二つの対照的な左手協奏曲を比較した記事もあわせてご覧ください。
【ピアノ】ラヴェルとブリテンの左手協奏曲:対照的な二つのコンセプトを比較する
‣ ボルトキエヴィチ:後期ロマン派の抒情を湛えた左手協奏曲
ハリコフ(現ウクライナ)出身のボルトキエヴィチによる「左手のためのピアノ協奏曲 第2番 Op.28」(初演:1929年)も、ヴィトゲンシュタインへの献呈作品です。
ショパンやリスト譲りの書法に、ロシア的な抒情性を色濃く残した一曲で、中盤にはショパン「革命のエチュード」の左手パートを思わせるオクターヴ書法も登場し、聴きどころの一つになっています。同主題・同調性のオクターヴ書法は、あくまで推測の域を出ませんが、作曲者が「【ピアノ】左手作品から読み解くドライショク:片手で二人分を弾いた男」で紹介しているドライショクの逸話を意識していた可能性を感じずにはいられません。
譜例(PD作品、浄書ソフトで作成、ソロの初導入部 38-40小節)

※ボルトキエヴィチ自身によるピアノ伴奏版編曲(ソロ+ピアノ伴奏形式:2台ピアノ)から浄書
なお、ボルトキエヴィチは結婚式向けの左手独奏小品「4つのピアノ曲 第3番 祝婚歌 Op.65-3」も残しており、こちらは別記事で紹介しています。
【ピアノ】左手のみで演奏する2つのウェディングソング:婚礼の合唱&祝婚歌
‣ その他の委嘱者たち
ここまで紹介した作曲家以外にも、リヒャルト・シュトラウスをはじめ、シュット、ブラウン、ガル、ブリヒトなど、当時のクラシック音楽界を代表する面々がヴィトゲンシュタインのために左手作品を書いています。ただし、これらの作品の多くは現在ではほとんど演奏される機会がなく、ラヴェルやプロコフィエフ、コルンゴルトの協奏曲ほど広く知られてはいないのが実情と言えるでしょう。
作曲家たちに支払われた委嘱料は決して少額ではなく、ヒンデミットはこの報酬でフランクフルトの自宅を整えることができ、フランツ・シュミットも念願だった住居をようやく手に入れられたと伝えられています。
► 自ら手がけた編曲・教則本
‣ School for the Left Hand(左手のための教則本) 全3巻
ヴィトゲンシュタインの活動は、作曲家への委嘱だけではありません。彼自身が片手ピアノの演奏技法を体系化し、後世の学習者にも残そうとしたのが、1957年に出版された「School for the Left Hand(左手のための教則本)」全3巻です。
第1巻は指の独立性を鍛えるための大量の練習問題、第2巻は既存の名曲から旋律や声部を省いた応用的な練習素材、そして第3巻は実際に彼が演奏会で取り上げた27曲の編曲集という構成になっています。選ばれた作曲家はJ.S.バッハ、ハイドン、モーツァルト、メンデルスゾーン、グリーグ、シューマン、ワーグナーなど幅広く、序文には「自身の片腕ピアニストとしてのキャリアの記録」という位置づけが記されています。
‣ J.S.バッハ「シャコンヌ」左手編曲版
「School for the Left Hand(左手のための教則本)」の第3巻に収められた、J.S.バッハ「シャコンヌ」の左手編曲版は、左手編曲で知られているブラームス版を土台にしつつ、オクターヴの重ねや技巧的なパッセージを大胆に加えた版です。ヴィトゲンシュタイン自身は「音楽の内容ではなく、ピアノでの鳴らし方に手を加えただけだ」という趣旨を述べていたといい、華やかで演奏会映えする仕上がりになっています。
この曲には、ブラームス版、ジチー版、フィリップ版 他 など複数の左手編曲が存在します。それぞれの違いを詳しく比較した記事は以下をご覧ください。
【ピアノ】左手のみで演奏するJ.S.バッハ「シャコンヌ」編曲版の種類と背景
‣ 帰属が定まらない編曲:「イゾルデの愛の死」
同じく「School for the Left Hand(左手のための教則本)」の第3巻に収められているワーグナー=リスト「イゾルデの愛の死」を元にした左手編曲版については、興味深い問題が残っています。原出版譜には編曲者名が明記されておらず、ヴィトゲンシュタインは楽譜集全体の「編者」として記載されているのみのため、この曲を実際に編曲したのがヴィトゲンシュタイン自身なのか、それともピアニストのイグナツ・フリードマンなのか、資料によって見解が分かれているのです。
この帰属問題を整理した記事もあるので、あわせて参考にしてください。
【ピアノ】左手作品から読み解くイグナツ・フリードマン:名ピアニストと帰属の定まらない左手編曲
‣ その他の代表的な編曲
「School for the Left Hand(左手のための教則本)」以外にも、ショパンの「革命のエチュード」を重音でさらに難度を上げた版や、ワーグナー「マイスタージンガー」からの五重唱の編曲、ショパンの「スケルツォ 第1番」を素材とした練習用小品など、演奏会用というよりは研究・訓練用に近い性格を持つ編曲も多数残しています。
ニューヨーク・タウンホールでのリサイタルでは、上記の「イゾルデの愛の死」の編曲や、ゴドフスキーが編曲した「ショパンのエチュードによる練習曲」を取り上げるなど、かなり高い難度の左手作品にも挑んでいたことがうかがえます。
► 演奏家としての強い個性
ヴィトゲンシュタインという人物を語るうえで欠かせないのが、音楽に対する強い主張と、妥協を許さない演奏家としての姿勢です。彼は多くの作曲家に対して率直に不満をぶつけ、ときには作品を演奏しないという強硬な態度を取ることも珍しくありませんでした。
| 作曲家 | 作品 | ヴィトゲンシュタインとの経緯 |
|---|---|---|
| R.シュトラウス | 家庭交響曲余録 Op.73 | 「華やかさが足りない」と不満を示し、さらに別の協奏曲を書かせた |
| ヒンデミット | 左手のためのピアノと管弦楽のための協奏曲 Op.29 | 一度も演奏せず、自筆譜のピアノパートは長らく行方不明に |
| プロコフィエフ | ピアノ協奏曲 第4番 変ロ長調 Op.53 | 「一音も理解できない」として初演自体を拒否 |
| ラヴェル | 左手のための協奏曲 | 独自の解釈で改変して演奏し、ラヴェルと激しく対立 |
| ブリテン | ディヴァージョンズ Op.21 | オーケストレーションへの不満を述べたが、ブリテンは修正を拒否 |
| F.シュミット | ピアノ五重奏曲 群 | 没後の両手版編曲をめぐり、シュミットの遺族とヴィトゲンシュタインとの間で激しい書簡のやり取りが発生 |
一方で、こうした対立の多くは、必ずしもヴィトゲンシュタインの我儘だけに起因するものではなく、片腕という制約の中で「舞台で確実に鳴る音楽」を求めた、演奏家としての切実な要求でもあったと捉えることもできそうです。実際、彼は自身の演奏スタイルについて「音を分厚く鳴らしたい」という志向を隠しておらず、若い頃から師レシェティツキーに「力強い弦の破壊者」と評されるほどの奏法の持ち主だったとも伝えられています。
なお、彼自身が遺した録音は資料価値は高いものですが、必ずしも評価の高いものではなく、荒々しい音質やペダリングの粗さを指摘する声もあります。それでも、片腕を失いながら国際的な演奏活動を貫いた歩みそのものが、多くの音楽家に強い印象を残したことは間違いありません。
► ジチーから後世の音楽家へ:ヴィトゲンシュタインが残したもの
ヴィトゲンシュタイン以前にも、狩猟事故の負傷で右腕を失ったハンガリーの伯爵ゲザ・ジチー(1849-1924)という先駆者がいました。ジチーはすでに片手ピアノ音楽の先駆者として活動していましたが、ヴィトゲンシュタインが求めていたのは、より高度で本格的な演奏会用レパートリーでした。この違いが、既存曲を探したり、自身で編曲するだけでなく、「新作を委嘱する」という発想へとヴィトゲンシュタインを突き動かした一因とも考えられます。
ヴィトゲンシュタインが切り拓いた「委嘱によって片手のレパートリーを築く」というモデルは、その後の世代にも受け継がれていきました。右手のジストニアに苦しんだレオン・フライシャーなど、身体的な困難を抱えたピアニストたちが、既存の左手作品を演奏するだけでなく、新たな作品を作曲家に委嘱することでレパートリーを拡張し続けてきたのです。
また、同じく右手のジストニアに苦しんだゲイリー・グラフマンは、長らく忘れられていたコルンゴルトの左手協奏曲を復活させました。
【ピアノ】左手音楽から読み解くゲイリー・グラフマン:右手の故障から生まれた新たなレパートリー
また、ゴドフスキーのように独学で左手の技巧を極めた作曲家兼ピアニストや、左腕の自由を失いながらも「デュオ:3手(右手+両手)」という編成に活路を見出したシリル・スミスのように、ヴィトゲンシュタインとは異なる道を選んだ音楽家たちの存在も、片手音楽の歴史に厚みを与えています。
・【ピアノ】なぜ、ゴドフスキーは左手のピアニストにならなかったのか
・【ピアノ】片手音楽から読み解くシリル・スミス:左腕の自由を失ったピアニストが拓いた「3手」の音楽
► なぜ左手音楽は、これほどまでに発展したのか
ヴィトゲンシュタインの活躍は、20世紀の左手ピアノ音楽の発展を大きく促した要因の一つでした。第一次世界大戦による負傷者という歴史的な背景に加え、左手が持つ音響的な優位性、右手の酷使による故障の多さなど、複数の要因が重なった結果として、現在のような左手作品の豊かなレパートリーが形成されてきました。
この点については、以下の記事で詳しく取り上げています。
► 終わりに
パウル・ヴィトゲンシュタインの生涯を追うと、一人のピアニストの意志が、いかに音楽の歴史そのものを動かしうるかがよく分かります。右腕を失うという困難に直面しながらも、自らの財力と人脈、そして強烈な個性で、20世紀を代表する作曲家たちから、次々と新たな作品を引き出していきました。
その道のりは決して平坦なものではなく、ラヴェルやプロコフィエフとの確執に象徴されるように、摩擦や衝突も少なくありませんでした。しかし、そうした緊張関係を含めて振り返ることで、一つの委嘱作品の背後にある人間ドラマまで含めて味わうことができます。
左手音楽という分野を語るとき、ヴィトゲンシュタインという存在を避けて通ることはできません。本記事を入り口に、ぜひ個々の委嘱作品や関連する音楽家たちの物語にも触れてみていただければと思います。
参考文献:
・パウル・ヴィトゲンシュタイン「School for the Left Hand」(Universal Edition, 1957)序文
・「Piano Music for One Hand」(テオドール・エーデル 著)
・「One Handed」(ドナルド・L・パターソン 編)
・ニューグローブ音楽大事典「Wittgenstein, Paul」の項
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