【ピアノ】左手作品から読み解くイシドール・フィリップ:左手が「もう一本の右手」になるまで

【ピアノ】左手作品から読み解くイシドール・フィリップ:左手が「もう一本の右手」になるまで

► はじめに

 

イシドール・フィリップ(Isidor Philipp, 1863-1958)という名前は、左手ピアノ音楽の文脈で二度登場します。一度目は彼自身の作品として、二度目は他の作曲家の左手作品の校訂者として。

本記事では、作編曲家・編者としてのフィリップが残した左手のための作品・編曲に焦点を当てます。

 

► 左手作品から読み解くイシドール・フィリップ

‣ イシドール・フィリップとは

 

1863年にブダペストで生まれたフィリップは、パリでステファン・ヘラーとカミーユ・サン=サーンスに師事し、1893年から1934年まで40年以上にわたってパリ音楽院でピアノを教え、数多くのピアニストを育てました。ピアノ技法書と2台ピアノのための編曲を数多く出版したことでも知られており、そのテクニックに関する業績は長年高く評価されてきました。

 

‣ フィリップの発想:「右手の曲を左手で弾く」

 

フィリップが1895年に出版した左手のための曲集は、左手のためのオリジナル曲を作ったのではなく、「既存の右手のための音楽を左手に移し替える」という方針をとりました。C.P.E.バッハ、ショパン、ツェルニー、ケスラー、クロイツァー、メンデルスゾーン、シューマン、ウェーバーの作品から素材を取り、右手用に書かれた既存作品の難しいパッセージを左手用に移し替え、必要に応じて伴奏的な部分を省略するという手法です。

序文を寄せたジョルジュ・マチアスは、この発想を「新しいアイデア」と呼びながら、音楽作品として楽しむことよりも、左手の技術訓練を目的とした性格を明確に示し、次のように結びました。

※マチアス序文より、筆者訳

この練習曲を根気よく長く学んだ者は、もはや左手を持たなくなるだろう。しかし2本の右手を持つことになる。

これはドライショクを「2本の右手を持つ男」と表現する逸話を連想させる言葉でもあります(【ピアノ】左手作品から読み解くドライショク:片手で二人分を弾いた男)。

フィリップ自身も本書の「注意書き(Avertissement)」の中で、以下のように具体的な指示を記しています。

※注意書き(Avertissement)より、筆者訳

左手の目的は完成と独立にある。そのためにはまず遅く練習し、次第に速くしてメトロノームの指示する動きに至ること。鍵盤の中央ではなく、右側に座ること。

 

‣ 左手作品3点を読む

· ① 左手のための練習と技術的エチュード

 

Exercices et études techniques de piano pour la main gauche seule

譜例(PD楽曲、浄書ソフトで作成、24の準備練習 より 第1番 1-4小節)

フィリップ「左手のための練習曲と技術的エチュード 第1曲」1-4小節

出版年:1895年
序文:ジョルジュ・マチアス

 

本書は左手のみを対象とした曲集で、24の準備練習、8つの技術練習、12のエチュードから構成されています。主要な12のエチュードの部分は、C.P.E.バッハ、ショパン、シューマンなどの作品から素材をとり、両手作品用に書かれたパッセージを左手用に移し替え、必要に応じて伴奏的な部分が省略されています。指を鍛えることを第一に設計された曲集と言えるでしょう。

12のエチュードの部分に収録されているC.P.E.バッハの「ソルフェッジョ ハ短調 Wq 117/2 H220」は、A.R.パーソンズ編曲版を使用し、最終小節の音などがわずかに変更されています。A.R.パーソンズ編曲版については、【ピアノ】片手編曲版のC.P.E.バッハ「ソルフェッジョ ハ短調」:3つの編曲を比較 をご覧ください。

 

· ② バッハによる4つのエチュード

 

4 Études d’après Bach

譜例(PD楽曲、浄書ソフトで作成、シャコンヌ 1-5小節)

J.S.バッハ作曲、フィリップ編曲「シャコンヌ」の楽譜。曲の冒頭の譜例が掲載されている。

出版年:1903年
献呈:モーリッツ・ローゼンタール

構成:

1. プレリュード ホ長調
2. ブーレ ロ短調
3. プレスト ト短調
4. シャコンヌ ニ短調

 

J.S.バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」からのトランスクリプション4曲です。

第4曲のシャコンヌは演奏時間が約17分に及ぶ大曲です。フィリップはこの独自編曲を手がけながら、同時期にブラームスによる左手版シャコンヌをデュラン社から監修・出版もしました。フィリップがブラームス版に独自のアーティキュレーション等を書き込んでいたことは、少なくとも彼がこの版を実際の演奏・指導の対象として扱っていたことを示しています。

同じ素材に、編曲者と校訂者という二つの立場から関わっていたことは興味深い点です。

 

· ③ メンデルスゾーンとパガニーニによる2つのエチュード

 

2 Études d’après Mendelssohn et Paganini

譜例(PD楽曲、浄書ソフトで作成、1-4小節)

フィリップ「メンデルスゾーンとパガニーニによる2つの練習曲 より 無窮動」1-4小節

出版年:1910年頃
献呈:ポール・シルヴァ・エラール

 

第1番はメンデルスゾーンの「無窮動 Op.119」に基づき、単音の連続によるパッセージワークを中心に進む書法です。第2番はパガニーニの「無窮動 Op.11」に基づき、やはり単音の連続を中心に訓練的な要素が全面に押し出されています。

 

‣ 校訂者としてのフィリップ

 

フィリップの左手音楽への関与は、上記の作品にとどまりませんでした。フェルディナンド・ボナミーチ(Ferdinando Bonamici, 1827-1905)のOp.271およびOp.273(1915年)の校訂を担当し、Op.271の序文では「忘れられた作品であるが、左手のために存在する最も完全な作品だと確信する」と記しています。

こうして見ると、フィリップという人物は左手ピアノ音楽の「作り手」であると同時に「伝え手」でもあったことが分かります。自ら左手技術の曲集を作り、他者の曲集を世に広め、後進のピアニストに左手訓練の重要性を説き続けた存在でした。

 

► 終わりに

 

フィリップの左手作品の多くは、華やかな演奏会用レパートリーというより、左手の技術を鍛えるための教材としての性格が強くあります。しかしだからこそ、教材史上の資料として残っています。フィリップの師で、ショパンの弟子としても知られるマチアスの「美的満足よりも一流の指の訓練を」という言葉は、フィリップへの最大の賛辞として読むべきでしょう。

彼が左手技術に注いだ情熱は、曲集という形で確かに残っています。左手の技術史や教材史を考えるうえでも、興味深い資料群と言えるでしょう。

 

参考文献:

・Philipp, Isidor. Exercices et études techniques de piano pour la main gauche seule. 1895. 原書.
・Edel, Theodore. Piano Music for One Hand. Indiana University Press, 1994.
・Patterson, Donald L. One Handed: A Guide to Piano Music for One Hand. Greenwood Press, 1999.

 

併読推奨記事

・【ピアノ】「Piano Music for One Hand」(テオドール・エーデル 著)レビュー
・【ピアノ】「One Handed」(ドナルド・L・パターソン 編)レビュー

 


 

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この記事を書いた人
タカノユウヤ

左手・片手のためのピアノ音楽を専門とし、作曲・編曲、講演などを行っています。また、当サイト「One-Hand Piano Institute」を運営し、作品・作曲家・音楽史・技術(作曲・編曲・演奏)・楽譜・文献まで、片手で演奏するピアノ音楽を多角的に紹介しています。

日本音楽コンクールをはじめ、国内外の作曲コンクールで受賞歴を持ち、これらの受賞作品はいずれも、左手ピアノを編成に含むアンサンブル作品、および、左手のためのピアノ独奏作品です。
また、大学院では左手のためのピアノ音楽における作曲・編曲をテーマに研究し、首席で修了しています。

右手の負傷をきっかけに出会った左手のためのピアノ音楽に心惹かれ、以来15年以上、この分野に取り組んできました。左手音楽の魅力と可能性を、より多くの方に知っていただけたら嬉しく思います。

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