【ピアノ】左手音楽から読み解くジョアン・カルロス・マルティンス
► はじめに
ブラジルを代表するピアニスト、ジョアン・カルロス・マルティンス(João Carlos Martins)。数々の怪我や病に見舞われながらも、長きにわたって音楽との関わりを絶やさなかった彼の人生は、まさに波乱そのものと言えます。
本記事では、そんなマルティンスの歩みを「左手音楽」という視点から辿ってみたいと思います。
► 左手音楽から読み解くジョアン・カルロス・マルティンス
‣ 神童から始まったキャリア
マルティンスはブラジルで生まれ、幼い頃から才能を発揮した神童ピアニストでした。本人の回想によれば、12歳でプロとしてデビュー。21歳でのカーネギーホール・デビューでは、ニューヨーク・タイムズの評者から「彼のテクニックはあらゆる方向に花火を打ち上げるようだ」と評されたといいます。J.S.バッハ演奏の名手として国際的な評価を確立し、世界各地で演奏活動を展開していきました。
‣ 18歳で始まった右手の異変
そんなマルティンスに最初の異変が訪れたのは、プロデビューからわずか6年後、18歳の頃だったといいます。右手の指に、練習を重ねるうちに意図せず曲がってしまうような症状が現れ始めたのです。これが後にフォーカル・ジストニアと診断されることになる右手の異変でした。ただし、当時はジストニアそのものについての理解が十分に進んでおらず、本人も長らく心因性の問題として扱われてきたと振り返っています。
興味深いのは、同じくジストニアに苦しんだアメリカのピアニスト、レオン・フライシャーとの関わりです。二人は1958年という早い時期から親交を結んでおり、演奏や運指について互いにアイデアを交換していたと、マルティンス自身が振り返っています。
‣ サッカー事故、そして苦悩の日々
20代のマルティンスに追い打ちをかけたのが、思いがけない事故でした。ニューヨークのセントラルパークでサッカーをしていた際に転倒し、尺骨神経を損傷してしまったのです。
1970年には、ピアノを手放しブラジルへと帰国するという決断にまで追い込まれています。本人いわく、当時は自ら命を絶つことすら考えるほど追い詰められていたといい、電話が鳴ったことでその衝動を思い留まったというエピソードも語られています。他業種に転職したりもしつつ、それでもマルティンスは治療と手術を重ねながら、演奏活動への道を模索し続けました。
この時点ではまだ、左手作品を扱うピアニストとして活動していたわけではありません。しかし、右手の機能を失っていく過程は、やがて彼を左手による演奏へと導いていくことになります。
‣ ブルガリアでの襲撃、そして復活のカーネギーホール
1995年、ブルガリアでの録音のために訪れていたマルティンスは、二人組の暴漢に襲われるという事件に巻き込まれます。9か月にも及ぶ入院生活を余儀なくされました。この事件によって右腕の機能はさらに損なわれてしまいます。
それでもマルティンスは音楽への情熱を失わず、1996年、カーネギーホールにて復帰公演を果たしました。アメリカ交響楽団と共演したこの舞台で、彼が選んだのがラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」だったのです。このときには両手でヒナステラも演奏していますが、ラヴェルの左手協奏曲を「復帰公演で選んだ」ことは、マルティンスにとって左手音楽が単なる「右手の代替」ではなく、再びステージに立つための重要な表現手段となったことを象徴する出来事だったのではないでしょうか。
‣ 手術の失敗、そして左手中心の演奏へ
復帰後もマルティンスの試練は続きます。2000年前後には、右手の機能回復を目指した手術に踏み切りましたが、期待した結果は得られず、右手はほとんど動かせない状態になってしまいました。
しかし、マルティンスはそこで演奏活動そのものを諦めることはしませんでした。左手作品の演奏に加え、左手とわずかに動かせる右手の指1本だけを頼りに、演奏を続けていくことになります。ここで興味深いのは、マルティンスの演奏が必ずしも「左手だけ」に限定されていたわけではないことです。左手を中心に、動かすことのできる右手の指も補助的に使うことで、従来とは異なる方法でピアノ演奏を続けていました。
資料によって回数には幅がありますが、25回前後にも及んだとされる度重なる手術の記録は、彼がいかに長い年月をピアノと向き合い続けてきたかを物語っていると言えるでしょう。
‣ 指揮者としての活動
さらに、21世紀以降には左手にもジストニアや拘縮が現れ、ピアノ演奏にはいっそう大きな制約が生じることになります。
ピアニストとしての演奏に大きな制約を抱えることになったマルティンスでしたが、指揮者として新たなキャリアを歩み始めます。鍵盤の上で表現することが難しくなっても、音楽そのものへの情熱は変わらなかった、ということなのでしょう。
‣「バイオニック・グローブ」との出会い
2020年、ブラジルの工業デザイナー、ウビラタン・ビザーロが開発した「バイオニック・グローブ」と呼ばれる特殊な手袋と出会います。手袋に組み込まれた機構によって、鍵盤を押した指を元の位置へ戻す動きを補助するもので、これによりマルティンスは20年以上ぶりに10本の指を使った演奏に再び挑戦できるようになりました。
本人も「器用さはないけれど、大切なのは聴衆に感動を届けることだ」と述べており、新しい形での音楽との向き合い方を見出したということのようです。
► 映像作品でその軌跡をたどる
マルティンスの波乱に満ちた人生は、これまでに映像作品としても取り上げられてきました。特に左手ピアノという観点から見ると、映像作品はマルティンスの歩みを知るための興味深い資料となります。
本サイトでも、それぞれ以下の記事でレビューしています。
【ピアノ】片手ピアノ関連ドキュメンタリー映画「Die Martins-Passion」レビュー
本人が自らの言葉で語るドキュメンタリー。バッハ=ブラームス「シャコンヌ」やスクリャービン「左手のためのノクターン Op.9-2」など、実際の演奏場面を通じて、苦難の記録を追うことができます。
【ピアノ】片手ピアノ関連映画「マイ・バッハ 不屈のピアニスト」レビュー
俳優がマルティンスを演じる劇映画。左手演奏の場面自体は多くありませんが、ラヴェルの左手協奏曲を軸に、ドラマチックな演出でその人生が描かれています。
ドキュメンタリーと劇映画、それぞれ異なる角度からマルティンスの姿を描いた作品なので、あわせて鑑賞することで、より立体的に彼の歩みを知ることができるでしょう。
► 終わりに
ジストニア、事故による神経損傷、暴漢による襲撃、手術の失敗、そして左手にまで現れた病のサイン——不運な出来事の連続を、マルティンスは長い歳月をかけて乗り越えてきました。両手の自由を失いかけてなお、限られた手段の中で音楽を続けた彼の姿は、左手音楽の歴史の中でも際立って印象的な一章と言えるでしょう。
マルティンスの歩みは、左手による演奏が、失われた機能を補うための手段に留まらず、音楽を続けるための一つの表現手段になり得ることを示しています。
参考資料・ウェブ資料
・Dystonia Network of Australia「Joao Carlos Martins’ Story」
・Rest of World「How an acclaimed pianist got his hands back」
・New York Post(PressReader)「HIS MAGIC FINGERS」
・NBC News「This Brazilian pianist uses ‘bionic gloves’ to play」
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