【ピアノ】左手音楽から読み解くトーマス・トランストロンメル

【ピアノ】左手音楽から読み解くトーマス・トランストロンメル

► はじめに

 

2011年のノーベル文学賞受賞者、スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル。彼は、文学の世界だけでなく、左手ピアノ音楽の歴史を考えるうえでも興味深い存在です。脳卒中によって右半身の自由と話す力の多くを失った後も左手でピアノを弾き続け、それをきっかけとして複数の作曲家が左手のための作品を残しました。

本記事では、左手音楽を手がかりに、トランストロンメルと音楽との関わりを辿ってみたいと思います。

 

► 左手音楽から読み解くトーマス・トランストロンメル

‣ 詩人であり、ピアノを愛した人物

 

トランストロンメルは1931年4月15日、ストックホルムに生まれました。心理学者としてのキャリアを歩みながら詩作を続け、スウェーデンを代表する現代詩人としての地位を確立していきます。少年時代からピアノに親しんでおり、生涯を通じて音楽は彼にとって欠かせない存在であり続けました。アマチュアながら本格的にピアノを弾きこなす腕前を持っていたことは、のちの彼の人生において、大きな意味を持つことになります。

 

‣ 1990年の脳卒中

 

1990年、トランストロンメルは脳卒中に見舞われ、右半身に麻痺が残りました。また、言語にも大きな障がいが生じ、以前のように言葉を使って意思を伝えることが難しくなりました。以降、妻モニカが「世界に向けた彼の声」として寄り添い続けることになります。会話が思うようにできなくなってしまった一方で、音楽への関心はむしろ発症後にいっそう深まっていったといいます。

 

‣ 左手だけでの再出発

 

発症後のトランストロンメルは、左手だけによるピアノ演奏を身につけていきました。本人はこの演奏を、脳卒中後も生き続けるための一つの方法だったと語っていたと伝えられています。

興味深いことに、詩を書く際にも、左手でゆっくりと一文字ずつ綴っていくというスタイルを取るようになっており、2004年に刊行された詩集「大いなる謎」(Den stora gåtan)は、発症後の彼の詩作を象徴する作品の一つです。なお、この詩集は、その多くが俳句の形式による短詩で占められています。

 

‣ トランストロンメルと左手作品

 

トランストロンメルの存在は、同時代のスウェーデンの作曲家たちを動かすことになりました。モーリス・カルコフは1992年に「左手のための幻想曲 Op.193」を作曲したほか、左手のための作品を数曲残しています。ドイツに生まれスウェーデンに亡命した作曲家ヴェルナー・ヴォルフ・グレーザーも、「Präludium(tillägnad Tomas Tranströmer)」、すなわち「前奏曲(トーマス・トランストロンメルに捧ぐ)」をはじめとする数曲を書いています。このように、彼の存在そのものが、新たな左手作品を生み出す直接のきっかけとなっていたと言えるでしょう。

一方で、トランストロンメルが愛奏していた作品の中には、彼のために新しく書かれたわけではない既存の左手レパートリーも含まれていました。チェコの作曲家ズデニェク・フィビフや、スペインの作曲家フェデリコ・モンポウの左手作品を好んで弾いていたことが知られているほか、2010年にはストックホルムで開催された詩祭「アルス・インテルプレス」において、レインゴリト・グリエールの「2つの小品 Op.99 より 第1曲 即興曲(左手のための)」を演奏したという記録も残っています。

 

‣「大いなる謎」朗読CDに刻まれた演奏

 

2004年に刊行された詩集「大いなる謎」は、同年、俳優クリステル・ヘンリクソンの朗読によるCDとしても発売されました。このCDには、トランストロンメル自身が左手で演奏する音源も収められており、オーストリアの作曲家ヨーゼフ・マティアス・ハウアー、モンポウ、カルコフ、そしてオランダのピアニスト・作曲家コル・デ・フロート、先述のグレーザーといった作曲家たちの小品が演奏されています。なお、コル・デ・フロート自身も1959年に右手の神経疾患を発症し、一時期は左手のレパートリーを中心に活動したピアニストです。

 

‣ トランストロンメル自身は作曲・編曲を行っていたのか

 

今回調べた限り、トランストロンメルが左手のための作品を自ら作曲したり、既存の曲を左手用に編曲したりしたという記録は見当たりませんでした。彼は生涯を通じてアマチュアとしてピアノを演奏し、他者が彼のために、あるいは彼のような境遇の演奏家のために書いた作品を、自らの手で弾きこなしていた人物だったと言えそうです。

 

► 終わりに

 

トランストロンメルは2015年3月26日、83歳でその生涯を閉じました。脳卒中の発症から25年、詩を書くことと左手でピアノを弾くことは、そのどちらもが彼にとって重要な表現手段であり続けました。

そして、彼自身が弾いた作品を辿っていくと、既存の左手レパートリーだけでなく、彼の存在をきっかけに生まれた作品にも出会うことができます。トランストロンメルの音楽との関わりは、左手のためのピアノ作品が、人と人との結びつきの中から生まれてきたものでもあることを教えてくれます。

 

参考資料・ウェブ資料

・Piano Music for the Left Hand Alone(left-hand-brofeldt.dk)
・The Nobel Prize. “Tomas Tranströmer – Biographical.”
・Poetry Foundation. “Tomas Tranströmer Plays Piano in New Short Doc on New Official Website.”
・Haven, Cynthia. The Book Haven (Stanford University). “Remembering Tomas Tranströmer: in the end, only music…”
・Iniesta, Ivan. “Tomas Tranströmer’s stroke of genius.”(PMC収録)

 

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この記事を書いた人
タカノユウヤ

左手・片手のためのピアノ音楽を専門とし、作曲・編曲、講演などを行っています。また、当サイト「One-Hand Piano Institute」を運営し、作品・作曲家・音楽史・技術(作曲・編曲・演奏)・楽譜・文献まで、片手で演奏するピアノ音楽を多角的に紹介しています。

日本音楽コンクールをはじめ、国内外の作曲コンクールで受賞歴を持ち、これらの受賞作品はいずれも、左手ピアノを編成に含むアンサンブル作品、および、左手のためのピアノ独奏作品です。
また、大学院では左手のためのピアノ音楽における作曲・編曲をテーマに研究し、首席で修了しています。

右手の負傷をきっかけに出会った左手のためのピアノ音楽に心惹かれ、以来15年以上、この分野に取り組んできました。左手音楽の魅力と可能性を、より多くの方に知っていただけたら嬉しく思います。

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