【ピアノ】左手作品から読み解くラウル・ソーザ:右手の負傷が開いた、もう一つのキャリア
► はじめに
左手のためのピアノ音楽を調べていると、アルゼンチン生まれのカナダ人ピアニスト、ラウル・ソーザ(Raoul Sosa, 1939- )の名前に出会うことがあります。しかしソーザは、幼少期から片手で演奏していたピアニストでも、右手の負傷以前から片手演奏を専門としていた音楽家でもありません。両手の演奏家として国際的なキャリアを築いたソーザが、左手のみで演奏する活動へと本格的に移行したのは、1980年に右手を負傷したことがきっかけでした。その後ソーザは、左手のためのレパートリーを自ら作曲・編曲しながら演奏活動を続けるという独自の道を歩みます。
本記事では、ソーザが左手のために作曲・編曲した作品を、確認できる資料とともに紹介します。
► 左手作品から読み解くラウル・ソーザ
‣ 二つのキャリア:負傷前と負傷後
ラウル・ソーザは1939年7月27日、ブエノスアイレスに生まれました。幼少期から音楽的才能を示し、15歳にはすでに著名な歌手や器楽奏者の共演者として舞台に立っていました。
ブエノスアイレス音楽院でピアノと音楽理論を学んだ後、1959年にテアトロ・コロンでデビュー。1962年のヴァン・クライバーン国際コンクールでファイナリストとなったのをはじめ、複数の国際コンクールで入賞・優勝を重ねました。
その後、フランス政府奨学金を得て渡欧し、パリとザルツブルクでマグダ・タリアフェロに、イタリアではスタニスラフ・ネイガウスに師事。パリのサル・ショパン=プレイエルやロンドンのウィグモア・ホールなど、欧米の主要な舞台で演奏活動を行いました。
1967年からはモントリオールのケベック音楽院でピアノと室内楽を教えながら、ケベック交響楽団、モントリオール交響楽団、トロント交響楽団などとも共演。ブラームス、プロコフィエフ、チャイコフスキーの協奏曲を演奏するなど、両手のピアニストとして国際的なキャリアを築いていました。
そのキャリアが大きく転換したのが、1980年のことです。
右手を負傷したソーザは、ピアニストとしての活動を断念するのではなく、左手のみで演奏する道へと進みました。同時期には指揮も学び、セルジュ・チェリビダッケに師事。1986年から1989年にはモントリオールのサン=レオナール交響楽団の創設指揮者を務めています。
その後も、ピアニスト、作曲家、指揮者、教育者として活動を続け、2009年にはカナダ勲章(Order of Canada)を受章。そして、モントリオール音楽院の名誉教授となりました。
‣ 左手作品について
ソーザの公式サイトには、オリジナル作品と編曲作品を合わせた左手作品の一覧が掲載されています。ただし、作品ごとの詳細な解説や楽譜情報までは掲載されていません。
そこで本記事では、筆者が所持する楽譜、ソーザの録音アルバム、ドナルド・L・パターソン編のカタログなどをもとに、詳細を確認できる作品については個別に紹介します。
それ以外の作品については、公式サイトに掲載されているタイトル、作曲年、演奏時間を一覧にまとめました。
· 編曲作品
– バッハ/ソーザ:半音階的幻想曲とフーガ ニ短調 BWV903
Fantaisie chromatique et fugue en ré mineur(BWV 903)
編曲:1989年
全26ページ(手稿複製)
演奏時間:約13分
J.S.バッハの原曲をソーザが左手独奏用に編曲した作品です。1990年3月15日に初演。
片手の演奏であることに対してほとんど妥協のない、充実した完成度の高い作品とされており、「片手演奏への譲歩はごくわずか」という評価があります。原曲の原典版に忠実な方針で編曲されており、ソーザ独自の創作的なアーティキュレーションは加えられていません。
ソーザ本人による自作自演の録音が存在します。
– バッハ/ソーザ:シンフォニア 第14番 BWV800
Sinfonia in B flat major (according to J.S. Bach)
編曲:1988年
全2ページ(手稿複製)
演奏時間:約2分20秒
原曲は3声の対位法作品という、片手演奏では演奏困難な書法ですが、音の変更や部分的な声部の削減などを駆使して左手作品にまとめられました。
J.S.バッハのオリジナルでは、特に12小節目以降に展開されるストレッタが聴きどころの一つですが、この部分はソーザの編曲では省かれています。片手で演奏可能にするための編曲上の制約が、元々の対位法的な展開にどのような変化をもたらしたかを比較してみるのも興味深いでしょう。
原曲の原典版に則し、創作的なアーティキュレーションはつけられずに編曲されていますが、強弱記号は多少補足されています。運指も記載されています。
– グルック/ソーザ:オルフェオの嘆き
Il lamento d’Orfeo
編曲:1997年
全3ページ(手稿複製)
演奏時間:約3分
グルックの代表的なオペラ「オルフェオとエウリディーチェ」の中で、最愛の妻エウリディーチェを失った主人公オルフェオが深い悲しみを歌う場面を基にした編曲作品です。
深い哀愁を帯びた旋律は、悲痛さの中にも静かな美しさを持っています。ソーザはこの旋律を左手のみで演奏できるように編曲し、原曲の持つ歌心を保ちながら、ピアノ独奏として成立させました。特徴的な音の連打も残されています。
– ラヴェル/ソーザ:ラ・ヴァルス
La Valse
編曲:1993年
全32ページ(手稿複製)
演奏時間:約16分
モーリス・ラヴェルが作曲した管弦楽曲「ラ・ヴァルス」を、左手のみで演奏できるように編曲した驚異的なピアノ独奏作品です。
原曲の「ラ・ヴァルス」は、めまぐるしく色彩が変わるオーケストレーションと、狂気へ向かって加速していくワルツの渦が特徴の非常にダイナミックな楽曲です。ラヴェル自身による両手用のピアノソロ版や2台ピアノ版でさえ演奏困難な作品ですが、ソーザ版では、オーケストラの持つ分厚い低音のうねり、きらびやかな高音のパッセージ、そしてワルツ特有の複雑な運動感を、左手だけで可能な限り再現するように編曲されました。
ソーザ本人による自作自演の録音が存在します。
– ストラヴィンスキー/ソーザ:火の鳥
L’Oiseau de feu
編曲:1996年
全22ページ(手稿複製)
演奏時間:約24分
ストラヴィンスキーのバレエ音楽「火の鳥」の左手用編曲です。
「火の鳥」といえば、色彩豊かなオーケストレーションが特徴ですが、ソーザはそのスタイルを大幅に変化させてしまうのではなく、原曲のオーケストラ・サウンドにできる限り肉薄する方向の編曲に挑戦しました。
「火の鳥」には、作曲者自身がオーケストラ用に編み直した組曲版がいくつか存在しますが、その中でも特に演奏機会の多い「1919年版(第2組曲)」をベースに編曲していることが、楽譜に明記されています。
· オリジナル作品
– カプリッチョーソ(パガニーニの「奇想曲 第24番」の主題による)
Capriccioso (on Paganini’s Capriccio No.24)
作曲:1995年出版
全12ページ(手稿複製)
演奏時間:約12分
パガニーニの奇想曲第24番の主題に基づく変奏曲。
変奏の一つは「Berceuse chinoise」と名付けられ、黒鍵のみで演奏されるのが興味深い点でしょう。1段譜と大譜表が使い分けられ、大きな跳躍、厚い和音、複雑な声部の重なり、鍵盤全体を縦横に使う書法など、演奏者に高い技術を要求します。楽曲冒頭のヴァイオリンを思わせる音型の部分では、ピアノソロにおける中高域の音響の希薄さを補うように、ヴァイオリンでは演奏できない和音も付加されています。
1995年11月19日にウィニペグ・アーツ・ギャラリーでソーザ自身が初演しました。
– ヴァイオリンと左手ピアノのためのソナタ
Sonata for violin and piano left hand
作曲:1992年
全28ページ(手稿複製)
演奏時間:約25分
左手ピアノは伴奏に回りながらも旋律を支え、時に対等に絡み合う書法がどのように成立しているか、聴きどころの一つと言えるでしょう。
1992年10月23日、ヴァイオリニストのマルティーヌ・デロシュを迎え、ソーザ自身のピアノにより初演されました。
– チェロと左手ピアノのためのソナタ
Sonata for cello and piano left hand
作曲:1995年
演奏時間:約23分
「ヴァイオリンと左手ピアノのためのソナタ」の3年後にあたる1995年に書かれました。他楽器と左手ピアノとの組み合わせに続けて取り組んでいた時期の作品です。
初演者や演奏時の詳細については、現時点で確認できる資料がありませんでした。
– 左手と弦楽オーケストラのための協奏曲
Concerto pour la main gauche et orchestre à cordes
作曲:1989年
全85ページ(手稿複製)
演奏時間:約28分
構成 全3楽章
第1楽章 Allegro molto
第2楽章 Adagio
第3楽章 Allegro
1992年2月2日、I Musici de Montréal により、作曲者自身のピアノで初演されました。
· ソーザの左手作品一覧(公式サイト掲載作品)
以下は、ソーザの公式サイトに掲載されている左手作品です。個別解説を行った作品には太字を付しています。
| タイトル | 年 | 演奏時間 |
|---|---|---|
| Sonate No.1 | 1984 | 18分50秒 |
| Two Etudes | 1984/5/2005 | 2分10秒 / 2分 / 2分30秒 |
| (タイトル不明) | 1984/5 | 12分15秒 |
| Valse “35” | 1985 | 1分40秒 |
| Sonate-Fantaisie | 1987 | 13分50秒 |
| Poem | 1988 | 14分 |
| Variations on the Engelkonzert by Paul Hindemith | 1988 | 17分 |
| Bach/Sosa: Sinfonia in B flat major (according to J.S. Bach) | 1988 | 2分20秒 |
| Bach/Sosa: Chromatic Fantasy and Fugue BWV 903 | 1989 | 13分 |
| Concerto with string orchestra | 1989 | 28分 |
| Ravel/Sosa: La Valse | 1993 | 16分 |
| Capriccioso (on Paganini’s Capriccio No.24) | 1995 | 12分 |
| Stravinsky/Sosa: L’Oiseau de feu | 1996 | 24分 |
| Gluck/Sosa: Il lamento d’Orfeo | 1997 | 3分 |
── 室内楽のうち左手ピアノを含む作品(公式サイト掲載)
| タイトル | 年 | 演奏時間 |
|---|---|---|
| Sonata for violin and piano left hand | 1992 | 25分 |
| Sonata for cello and piano left hand | 1995 | 23分 |
| Sonata for viola and piano left hand | 2000 | 21分 |
※表内の作品はタイトルと年代・演奏時間のみ公式サイトで確認(内容の詳細は資料に記載なし)
※公式サイトによると、右手のための作品もわずかに作曲している
► ソーザの編曲作品をソーザ自身の演奏で聴く
以下のアルバムでは、本記事で紹介した「半音階的幻想曲とフーガ ニ短調 BWV903」や「ラ・ヴァルス」を、ソーザ自身の演奏で聴くことができます。
Ravel; Chopin; Saint-Saëns: An anthology for the left hand / Raoul Sosa
リリース年:1997年
レーベル:Analekta-Fleur de Lys
► 終わりに
右手の負傷という出来事を、ソーザはキャリアの終わりとしてではなく、新しい方向への転換点として受け取りました。左手のための協奏曲を自ら書き、J.S.バッハやラヴェル、ストラヴィンスキーを左手用に編曲し、それを自分で演奏する——その一連の仕事は、演奏家と作曲家の両方の顔を持つソーザならではのものです。
ソーザの左手作品の多くは、手稿を複製した形で流通しており、一般的な市販楽譜として広く流通しているとは言いにくい状況にあります。しかし、カナダ音楽センターのアソシエイト・コンポーザーとして作品が保存されており、片手音楽の分野で今後さらに知られていく可能性のある音楽家です。
ソーザの歩みは、右手の負傷によって「ピアニストとしてのキャリアを失った」「左手作品に触れてみた」という単純な物語ではありません。むしろそれを契機として、作曲・編曲・演奏を一体化した、もう一つのキャリアを切り開いた音楽家の歩みと言えるでしょう。
参考文献:
・「Piano Music for One Hand」(テオドール・エーデル 著)
・「One Handed」(ドナルド・L・パターソン 編)
・録音音源:Raoul Sosa「Ravel; Chopin; Saint-Saëns: An anthology for the left hand」
・Raoul Sosaの公式HP
併読推奨記事
・【ピアノ】「Piano Music for One Hand」(テオドール・エーデル 著)レビュー
・【ピアノ】「One Handed」(ドナルド・L・パターソン 編)レビュー
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