【ピアノ】左手作品から読み解くスクリャービン:右手への執着と、左手のための名品

記事内に広告が含まれています。

【ピアノ】左手作品から読み解くスクリャービン:右手への執着と、左手のための名品

► はじめに

 

アレクサンドル・スクリャービン(Alexander Scriabin, 1872-1915)が作曲した「左手のための2つの小品 Op.9」は左手ピアノのレパートリーのなかでも広く演奏される作品に数えられており、ショパンの影響を色濃く受けた初期のスクリャービンの姿を伝える名品でもあります。

なぜ、スクリャービンが左手のために書いたのか——その答えは、モスクワ音楽院の学生時代にまでさかのぼります。そこには一人の若者が、競争心から自らを傷つけ、絶望し、そして回復していくという物語がありました。

 

► 左手作品から読み解くスクリャービン

‣ 右手を壊した夏

 

モスクワ音楽院でスクリャービンを指導したのはヴァシリー・サフォノフでした。「鍵盤に沈み込め、鍵盤の上を飛び跳ねるな」——この教えを受けたスクリャービン。同じ音楽院で学んでいたヨゼフ・レヴィーンを強く意識していました。

二人はともに卓越した才能を持つピアニストでしたが、スクリャービンには、レヴィーンに対する強い競争心があったと伝えられています。バラキレフの「イスラメイ」とリストの「ドン・ファンによる幻想曲」を、あの驚異的な同級生と同じ速さで弾けるようになる——その一念で、スクリャービンは夏の別荘を借り、昼も夜もひたすらピアノを弾き続けました。

その結果として右手に腱炎が生じ、医師からは「もう二度とピアノを弾けないかもしれない」と告げられます。しかしスクリャービンは絶望することなく、6ヶ月にわたって左手だけで練習を続けたとされます。ただし、その間にどのような曲を弾いていたのかまでは伝わっていません。ようやく右手が使えるようになってからも、完全な回復にはさらに2年の苦しい時間が必要でした。

Op.9のプレリュードとノクターンは、この右手の故障から約2年後の1894年に書かれた作品です。

この経験は、スクリャービンの音楽の内側にも痕跡を残しました。この時期以降、彼のピアノ曲では左手のパートがより重要な役割を担うようになったとも指摘されており、若き日の危機が作曲家としての成長を促した側面があることがうかがえます。

また、右手への強迫的なまでのこだわりは、生涯を通じて右手を非常に気にかけ、人と話している間にもテーブルを指で叩き続ける癖があったという逸話にも表れています。

 

‣ 左手作品を読む

· 左手のための2つの小品 Op.9

 

プレリュード Op.9-1

譜例(PD楽曲、浄書ソフトで作成、1-3小節)

スクリャービン「左手のための2つの小品 Op.9-1」の曲頭の楽譜。

ノクターン Op.9-2

譜例(PD楽曲、浄書ソフトで作成、1-3小節)

スクリャービン「左手のための2つの小品 Op.9-2」の曲頭の楽譜。

 

曲名 作曲年 演奏時間 特徴
プレリュード Op.9-1 1894年 約3分半 両手作品とあわせてレパートリーとして定着
ノクターン Op.9-2 1894年 約6分 静寂さと劇的さを併せ持つ、カデンツァを含む充実作

 

難易度:Op.9-1 ツェルニー30番修了〜40番入門程度、Op.9-2 ツェルニー40番中盤程度
分類:オリジナル作品(独奏)

 

プレリュードでは、小さな規模の中にロシア的な哀愁を帯びた旋律が凝縮されています。ノクターンでは、メロディ・伴奏・バスなどを左手一つで受け持ちながら、幅広い音域を行き来することで、片手演奏とは思えない豊かな響きにまとめられました。

ピアニストのデトレフ・クラウスは、これら2曲について、それぞれ「なぜこんなに悲しいのか分からない」および「白樺の木の下の夢」というロシア民謡との関連を指摘しています。

スクリャービン自身が演奏会プログラムにOp.9を頻繁に組み込んでいた理由については、この美しい作品への愛着のほかに、右手を数分間休ませたかったからではないか——という興味深い推測も示されています。

 

· 幻のワルツ

 

Op.9以外にも、スクリャービンが左手のための作品を作り、演奏したとされる記録が残っています。

右手を傷めていた時期に、スクリャービンはヨハン・シュトラウスのワルツ主題による左手のためのパラフレーズを作り上げ、友人の前で演奏したようです。その後、1907年にはニューヨークでもこのワルツを演奏したことが記録されています。

しかし、このワルツにはスクリャービン自身にとって苦い思い出が残りました。演奏会では大きな喝采を受けたものの、その最中に客席からロシア人の知人による鋭い批判の声が聞こえ、それを恥じたスクリャービンは、それ以来このワルツを弾かなかったと伝えられています。

エーデルが紹介しているスクリャービン自身の回想によれば、このワルツは病気の際に左手を鍛えるために作られたものでした。スクリャービンはそれを「ヴィルトゥオーゾ的な仕掛けとオクターブに満ちた」作品と振り返っています。つまり、これは単に右手を休ませるための代替的な作品ではなく、左手そのものを鍛え、その技巧を引き出すために作られた作品だったと考えられるでしょう。

この逸話からは、スクリャービンが左手のヴィルトゥオーゾ的な音楽に対して、単純ではない感情を抱いていたことがうかがえます。自ら「大受け」するほどの作品を作りながら、それを後には恥じて演奏しなくなった——その葛藤は、Op.9の内省的な美しさとは対照的です。

このワルツの楽譜は発見されていません。スクリャービンが書き留めたかどうかも不明とされています。

 

‣ Op.9が左手ピアノ史の中に占める場所

 

Op.9という後年の神秘主義的な作風とはまったく異なる顔を持つこの2曲が、今日でも左手ピアノのレパートリーとして広く演奏されている理由の一つは、その旋律の美しさにあります。エーデルはこれを「レパートリーの宝石」と評し、パターソンは「忘れがたい抒情の湧出」と表現しています。

また、著名な作曲家による作品であり、比較的取り組みやすく、しかも音楽的な魅力に富んでいることも、Op.9が広く弾かれるようになった理由の一つでしょう。Felix Foxによるアンソロジー「Piano Pieces for the Left Hand Alone」など、20世紀前半のアンソロジーにも収録され、次第にレパートリーとして広がっていきました。

Op.9が演奏家の間でも早くから高く評価されていたことは、ゴドフスキーが1906年のベルリン・リサイタルで、この2曲を他のスクリャービン作品とともに取り上げていたことからも分かります。

この1906年には、スクリャービン自身もニューヨーク公演でこのノクターンを演奏しました。このとき、すでにこの作品がピアノロール(演奏者は不明)や楽譜の販売を通して広く知られていることを知り、スクリャービンは大いに喜んだと伝えられています。

左手ピアノのレパートリーを探している演奏者にとっても、また純粋にスクリャービンの初期の世界に触れたいという方にとっても、Op.9は入り口として理想的な作品と言えるでしょう。

 

► 終わりに

 

スクリャービンの左手作品はわずかしかありません。しかし、そのわずかな作品の背後には、無謀な練習、右手を失うかもしれない恐怖、そして半年間に及ぶ左手だけの練習という、若き音楽家の深刻な経験が横たわっています。

左手の経験が、結果として彼の音楽に新たな可能性をもたらした——そう考えると、Op.9は単なる「左手のための作品」に留まらない意味を持って見えてきます。

 

Op.9の版選びについては、【ピアノ】スクリャービン「左手のための2つの小品 Op.9」、楽譜12種類を実際に購入して比較してみた を、演奏法については、【ピアノ】スクリャービン「左手のための2つの小品 Op.9」演奏完全ガイド をご覧ください。

 

参考文献:

・Bowers, Faubion. Scriabin: A Biography. 2nd, rev. ed. Dover, 1996.
・Edel, Theodore. Piano Music for One Hand. Indiana University Press, 1994.
・Patterson, Donald L. One Handed: A Guide to Piano Music for One Hand. Greenwood Press, 1999.
・The New Grove Dictionary of Music and Musicians, “Scriabin, Alexander”.

 

併読推奨記事

・【ピアノ】「Piano Music for One Hand」(テオドール・エーデル 著)レビュー
・【ピアノ】「One Handed」(ドナルド・L・パターソン 編)レビュー

 


 

► 関連コンテンツ

YouTubeチャンネル
・Piano Poetry
チャンネルはこちら

SNS/問い合わせ
X(Twitter)はこちら

 

この記事を書いた人
タカノユウヤ

左手・片手のためのピアノ音楽を専門とし、作曲・編曲、講演などを行っています。また、当サイト「One-Hand Piano Institute」を運営し、作品・作曲家・音楽史・技術(作曲・編曲・演奏)・楽譜・文献まで、片手で演奏するピアノ音楽を多角的に紹介しています。

日本音楽コンクールをはじめ、国内外の作曲コンクールで受賞歴を持ち、これらの受賞作品はいずれも、左手ピアノを編成に含むアンサンブル作品、および、左手のためのピアノ独奏作品です。
また、大学院では左手のためのピアノ音楽における作曲・編曲をテーマに研究し、首席で修了しています。

右手の負傷をきっかけに出会った左手のためのピアノ音楽に心惹かれ、以来15年以上、この分野に取り組んできました。左手音楽の魅力と可能性を、より多くの方に知っていただけたら嬉しく思います。

タカノユウヤをフォローする
► 片手音楽史・コラム・その他(Column)
シェアする

コメント

タイトルとURLをコピーしました