【ピアノ】Barbara Arens「ONE HAND PIANO 40 Pieces for Left or Right」シリーズ 完全ガイド
► はじめに
Barbara Arensが編集した「ONE HAND PIANO 40 Pieces for Left or Right」シリーズは、怪我や病気で一時的・恒久的に片手しか使えなくなったピアノ学習者のために編集された曲集で、第1巻が2013年に刊行されました。一方で、その内容は「代替教材」の枠に留まりません。両手が使える方にとっても、練習教材として幅広く活用できる一冊に仕上がっています。
このガイドでは、第1巻・第2巻それぞれの特徴や難易度、収録曲、練習における注意点などを、まとめて紹介します。
► 内容について
‣ 基本情報
· シリーズが生まれた背景
片手のためのピアノ作品自体は以前から存在していました。ブラームスが編曲したJ.S.バッハの「シャコンヌ」や、ラヴェルが片腕のピアニスト、パウル・ヴィトゲンシュタインのために書いた作品などがその代表例ですが、技巧的に高度な作品の割合が高く、上級者でなければ挑戦しにくいものとなっています。加えて、その多くは左手用に限られているという課題も抱えていました。
そこでArensは「実際の学習者が取り組みやすい片手作品」を自ら作編曲することを決意し、数年をかけて楽曲を蓄積していきました。その成果が2013年に第1巻として、そして2022年には続編となる第2巻として世に送り出されています。
第1巻と第2巻を合わせると80曲が収録されており、それも、右手のみで演奏できる作品も多く含まれているのは大きな魅力と言えるでしょう。
· 編集者について:Barbara Arens
1960年生まれのBarbara Arensは、演奏家としてはチェンバロとオルガンを中心に活動してきましたが、現在はピアノ講師として、教え子のための作品を生み出すことに情熱を注いでいるといいます。現在はドイツ・ヴュルツブルク近郊を拠点にされているようですが、ベイルート、ダラス、サンフランシスコ、シンガポール、ザルツブルク、ロンドン、ミュンヘンと世界各地で暮らしてきました。
本作「ONE HAND PIANO 40 Pieces for Left or Right」以外にも、「Small Hand Piano」「Piano Exotico」「Piano Misterioso」など、学習者の状況に応じたユニークなテーマのピアノ曲集を複数手がけており、教育的な視点から作品を作り続ける姿勢が一貫しているようです。
· このシリーズが向いている方
・怪我をした生徒への対応に悩むピアノ講師の方
・体調や身体的な事情により、一時的または恒久的に片手でしか演奏できない方
・発表会で、個性的な選曲を探している方
・弱い方の手を集中的に鍛えたい方
全40曲のうち、右手・左手いずれでも演奏できるよう設計された作品や、右手独奏を想定した作品が比較的多く含まれています。教育的な配慮から曲順が組まれてはいるものの、必ずしも1曲目から順番にすべてをこなす必要はなく、必要な曲、興味を持てる曲から自由に選んで取り組む使い方も十分に成立するでしょう。
また収録曲すべてがArensのオリジナル作曲・編曲というわけではなく、既存の片手用作品がそのまま、あるいはArensの手が加えられた形で組み込まれている点も、このシリーズの特徴の一つと言えます。
· 難易度の目安
2冊の難易度には、明確な段階差が設けられています。
| 巻 | 難易度の目安 | 内容 |
|---|---|---|
| 第1巻 | バイエル中盤程度 〜 ツェルニー30番中盤程度 | 初学者でも取り組みやすい易しい曲から始まり、徐々に技術的な要素が増していく |
| 第2巻 | ツェルニー30番入門程度 〜 ツェルニー40番中盤程度 | 第1巻の続きとして、技術的にも記譜的にもより発展的な内容へとつながっていく |
‣ このシリーズならではの特徴
· 知っているメロディに出会える楽しさ
「片手練習=地味な訓練」というイメージを覆すのが、誰もが耳にしたことのある名曲が随所に散りばめられている点でしょう。知っているメロディの代表的な例を挙げると、次のようなものがあります:
・第1巻 33番
「Guten Abend, gut’ Nacht(ブラームスの子守歌)」の右手独奏版
・第1巻 40番「Prélude(J.S.バッハ)」
「無伴奏チェロ組曲第1番 ト長調 BWV1007」のプレリュードを、左手独奏用に編曲した1曲
・第2巻 8番
「Greensleeves(グリーンスリーブス)」の右手/左手両用独奏版
・第2巻 25番
「Gavotte(ゴセック)」の右手独奏版
この他にも民謡やポピュラーソングの編曲が数多く含まれており、クラシックに限らず幅広いジャンルの音楽を片手で楽しめるよう工夫が凝らされています。
· 第2巻で出会う、現代的な記譜法
第2巻に進むと、単に技術的な難易度が上がるだけでなく、記譜法そのものの多様性が広がっていく点も見逃せません。例えば、明確な拍子に縛られない「プロポーショナル・ノーテーション」を用いた作品や、3+3+2/8拍子のような変拍子を持つ作品、スウィング感覚を要求される作品などが登場します。
こうした現代的な書法は、通常であれば技術的に高度な作品の中で初めて出会うことが多く、初学者にとってはハードルが高く感じられがちです。しかしこのシリーズでは、あえてシンプルで取り組みやすく親しみやすい作品の中にこれらの要素を織り込むことで、無理なく触れられるようになっています。この点は、他の片手教本にはあまり見られない大きな特色と言えるでしょう。
· 第2巻ならではの、現代の作曲家との協働
第2巻には、Arens自身の作品や過去の名曲の編曲に加えて、現役の作曲家による書き下ろし作品も収められています。Garreth Brooke、Alison Mathews、Clemens Christian Poetzschの3名がそれぞれこの曲集のために新曲を提供したほか、Nikolas Siderisも自身の美しい作品「One」の収録を快諾しています。
過去の作品の編曲に留まらず、現代の作曲家たちとのコラボレーションによって生まれた新しい響きに出会えるのも、このシリーズの大きな魅力ではないでしょうか。
· 独奏だけではない:アンサンブルの要素
基本的には独奏曲が中心の作品集ですが、すべてが一人で完結する構成というわけではありません。「第1巻 16番 Cowboy Duck」では実際に歌うことが求められ、歌詞の1番が楽譜内に記載されています。また「第2巻 9番」のように、片手ピアノと声楽を組み合わせたアンサンブル的な楽曲も一部収録されており、単なる技巧練習にとどまらない音楽的な広がりを感じられる構成になっています。
‣ 購入前・練習前に知っておきたいこと
· 取り組むうえで気をつけたいこと
片手用に書かれているとはいえ、これらの作品は「両手で弾く曲を片手だけ抜き出したもの」ではなく、片手であっても音楽的に成立するよう設計されています。とりわけ第1巻に収録されているようなシンプルな曲は、しっかりと音楽的な意図を持って演奏しようという気持ちを持たないと、単に「両手作品の片手分をなぞっているだけ」という印象になりかねません。音源(後述)も参考にしながら、フレーズの歌わせ方や強弱、間の取り方など、できる限り、表現の部分に注意を払いましょう。片手だからこそ、旋律・伴奏・和声などを一人で担う意識が重要になります。
また、鍵盤楽器の性質上、楽譜上は長く伸ばすべき音符でも、実際には物理的に保持しきれない箇所が随所に存在します。Arens自身も序文の中で、ダニエル・バレンボイムの「ピアノの芸術とは幻影の芸術である」という言葉を引用しながら、サステインペダルと演奏者の想像力によって、その音が「聴こえている」ように演出することの大切さに触れています。出し終わった音はペダルに任せきりにするのではなく、よく聴き続けているようにしましょう。
· 運指・強弱記号について
楽譜中の運指番号は、上段の数字が右手用、下段のイタリック体の数字が左手用として表記されています。右手または左手専用に書かれた曲では、すべての運指番号が通常の向きで記載される仕組みです。あくまで「提案」という位置づけであり、絶対的な指示ではないため、自身の手に合わせて調整しながら使ってみましょう。
第2巻には、C.P.E.バッハ「右手あるいは左手のための小品」のような、もともと片手用に書かれた古典的名曲も収録されています。原曲をそのまま掲載するのではなく、Arensが装飾音の弾き方、運指、強弱、ペダリングなどを丁寧に補っているため、学習者が独力で取り組みやすい形に整えられている点は特筆に値するでしょう。
‣ 収録曲一覧
※ページ番号はBreitkopf & Härtel版(現行版)に基づきます。
· 第1巻 収録曲一覧
| No. | 曲名 | 手 | ページ |
|---|---|---|---|
| 1 | Rock ‘n’ Jump | R/L | 7 |
| 2 | Sorgenloser Walzer / Carefree Waltz | R/L | 8 |
| 3 | Tollpatsch-Cha-Cha-Cha / Clumsy Cha-cha-cha | R | 8 |
| 4 | Kyoto | R/L | 9 |
| 5 | Des Engels Lied / Angel’s Song | R | 10 |
| 6 | Kirmes / Fun Fair | R/L | 10 |
| 7 | Trotting Pony | R | 11 |
| 8 | Lied des Dschungels / Jungle Song | R/L | 12 |
| 9 | Nicht ganz brav / Little Mischief | R/L | 13 |
| 10 | Grashüpfers Picknick / Grasshopper’s Picnic | R/L | 14 |
| 11 | British Grenadiers treffen Yankee Doodle / British Grenadiers Meet Yankee Doodle | R/L | 14 |
| 12 | Bester Laune! / Feeling Upbeat! | R/L | 16 |
| 13 | Beidhänder-Blues / Ambidexterous Blues | R/L | 16 |
| 14 | Gälisches Lied / Gaelic Song | L | 17 |
| 15 | Black ‘n’ Blue | R/L | 18 |
| 16 | Cowboy Duck | R/L | 19 |
| 17 | Romanze / Romance | L | 20 |
| 18 | Verträumt / Dreamy | R/L | 21 |
| 19 | Geisterstunde / Spooky Hour | R/L | 22 |
| 20 | Hommage à A. H. | L | 23 |
| 21 | Scarborough Fair | R | 24 |
| 22 | Donnerhöhle / Cave of Thunder | R/L | 25 |
| 23 | Stadtbummel mit links / Left Hand Goes to Town | L | 26 |
| 24 | Sehr trauriges Lied für die linke Hand / A Very Sad Song for the Left Hand | L | 27 |
| 25 | Weg mit dem Metronom! / Away with the Metronome! | R | 28 |
| 26 | Harte Zeiten / Hard Times | R | 29 |
| 27 | The Drunken Sailor | R/L | 30 |
| 28 | Toledo | L | 31 |
| 29 | Ballade / Ballad | L | 32 |
| 30 | Sieben Variationen über “Le Forze d’Hercole” / Seven Variations on “Le Forze d’Hercole” | R | 34 |
| 31 | Lyrisch / Lyrical | R | 37 |
| 32 | The Weird Sisters | R | 38 |
| 33 | Guten Abend, gut’ Nacht / Lullaby and Good-Night (J. Brahms) | R | 40 |
| 34 | Don Giovannis Menuett / Don Giovanni’s Minuet (W. A. Mozart) | R/L | 41 |
| 35 | Fledermaus-Walzer / The Bat Waltz (J. Strauß) | R | 42 |
| 36 | So ein Stress! / What Stress! | R | 43 |
| 37 | Somewhere Over the Rainbow (H. Arlen) | R | 44 |
| 38 | Mein kleiner grüner Kaktus / My Prickly Little Cactus (H. Herda) | R | 46 |
| 39 | Andante (J. S. Bach) | R | 48 |
| 40 | Prélude (J. S. Bach) | L | 49 |
· 第2巻 収録曲一覧
| No. | 曲名 | 手 | ページ |
|---|---|---|---|
| 1 | Alpine Echoes | R/L | 6 |
| 2 | Keeping Busy | R/L | 7 |
| 3 | Gong Xi | R/L | 8 |
| 4 | Below the Sea (Mathews) | R/L | 9 |
| 5 | Black Mamba | R | 10 |
| 6 | Paddy’s Lamentation | R | 11 |
| 7 | Scotland the Brave | R/L | 12 |
| 8 | Greensleeves | R/L | 13 |
| 9 | Benedicamus Domino | R/L | 14 |
| 10 | Consolation | R/(L) | 15 |
| 11 | Piggory’s Birthday | R/L | 16 |
| 12 | Just Three Chords | R/L | 17 |
| 13 | Oh, When the Saints | R/L | 18 |
| 14 | Pep Talk | R | 19 |
| 15 | The Banks of Esk | R/L | 20 |
| 16 | Sneaking Around | R/L | 21 |
| 17 | Duo | R/L | 21 |
| 18 | Feeling Jumpy | R | 22 |
| 19 | Klassisches Sonatinchen / Classical Sonatinette | R | 24 |
| 20 | Gently, Gently | R/L | 25 |
| 21 | An Eastern Tale | R/L | 26 |
| 22 | Twilight | R | 27 |
| 23 | Winter Wind | R/L | 28 |
| 24 | Tango for One | R | 29 |
| 25 | Gavotte (Gossec) | R/(L) | 30 |
| 26 | Waltz at the Hofburg | R/L | 32 |
| 27 | Élégie | R/L | 34 |
| 28 | Anno 1021 | L | 36 |
| 29 | As Dark as It Gets | R/L | 37 |
| 30 | Clavierstück (C. Ph. E. Bach) | R/L | 38 |
| 31 | Solfeggio C-dur / in C major (Vogler) | R/L | 40 |
| 32 | Exuberance (Sartorio) | R/L | 42 |
| 33 | One (Sideris) | R/L | 44 |
| 34 | Memory of a Welsh Folk Song (Brooke) | R | 46 |
| 35 | Solfeggio e-moll / in E minor (Broschi) | R/L | 47 |
| 36 | Left on the Wave (Poetzsch) | L | 48 |
| 37-39 | Präludium, Scherzo, Andante con variazioni (Reger) | R/L | 48 |
| 40 | Präludium durch alle Tonarten / Prelude through all Keys (Mandyczewski) | L | 52 |
‣ 楽譜・音源情報
· 楽譜
第1巻
第2巻
第2巻はAmazonでの取り扱いが少ないため、以下の楽天市場のリンクから確認できます。
【輸入楽譜】アレンス, Barbara: 片手のピアノ 第2巻: 左手、右手のための40の小品集
· 音源
両巻ともに、収録されている全曲のMP3音源をBreitkopf & Härtelの公式サイトから無料でダウンロード・視聴いただけます。
第2巻については、一部の演奏がYouTube上でも編集者のBarbara Arensが「Arens One Hand Piano 2」として公開しています。楽譜だけでは掴みにくいテンポ感や表情を確認する際に活用してみてください。
公式で演奏音源が公開されている教材は、片手作品の教材では比較的珍しい例となっています。
Barbara Arensによる公式音源プレイリスト
► 終わりに
「ONE HAND PIANO」シリーズは、怪我をした生徒への応急処置的な教材という枠を大きく超えて、片手という条件そのものを音楽的な表現の可能性として捉え直した作品集と言えるかもしれません。第1巻の親しみやすい小品から始まり、第2巻での多彩な記譜法や現代作曲家とのコラボレーションに至るまで、片手音楽の奥行きを感じてみてください。
片手演奏を学ぶ最初の一冊としても、指導現場で活用する教材としても、長く手元に置いておきたいシリーズと言えるでしょう。
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