【ピアノ】左手作品で学ぶ、手首のアップ・ダウンと前腕・肘の回転
► はじめに
ピアノを弾くとき、指先の動きにばかり意識が向きがちですが、実は手首や肘の使い方が音色や弾きやすさに大きく左右します。
両手作品では、片方の手が休んでいる間にもう一方の手を準備できることがあります。しかし左手独奏では、左手自身が音楽の流れを途切れさせずに、次の音型へ移動しなければなりません。そのため、手や指先だけに負担を集中させず、手首や腕全体を効率よく使って打鍵することが重要になります。
本記事では、手首の「アップ・ダウン」という基本動作から、それをさらに発展させた肘の回転まで、実際の左手作品の譜例を交えながら見ていきます。
► アップ・ダウンとは何か
まず基本となる動作を整理しておきましょう:
ダウン(下げる動作)
音や音群に向かって、手首や腕を沈めるようにしながら打鍵する動作。音に重みを与えたり、次の動作の起点を作ったりする。
アップ(上げる動作)
音や音群を弾きながら、手首・腕の重心を少しずつ持ち上げていく動作。フレーズを次へ送り出したり、次のダウンへの準備をしたりする。
なお、ここでいう「アップ」は、単純に「音を弱くする」という意味ではありません。手首や腕を上げながらでも、打鍵速度などによって十分に大きな音を出すことができます。重要なのは、音量そのものよりも、身体の重心をどの方向へ移動させているかです。
この二つを場面に応じて使い分けることで、強弱やフレーズのまとまりが指先の力だけに頼らず自然に表現できるようになります。
注意したいのは、動かしすぎないことです。あくまで打鍵を助けるための補助的な動作であり、大きく動かすと、かえって余計な力みや動作のロスにつながってしまいます。
► 動作がやや大きめなアップ・ダウン
‣ 例:スクリャービン「左手のためのノクターン Op.9-2」
スクリャービン「左手のための2つの小品 第2番 ノクターン Op.9-2」
譜例(PD楽曲、浄書ソフトで作成、7-8小節)

7小節目から8小節目にまたがる箇所で、メロディのC音が2度続けて鳴らされます。
演奏のポイント:
1つ目のC音 → アップの動作(軽め)
2つ目のC音 → ダウンの動作(和音の厚みを活かし、より深く)
このように手首の動作を変えるだけで、軽く扱うべき音と重みをのせるべき音を、自然な形で弾き分けることができます。
1つ目のC音は単音であり、またフレーズの流れの中で次の音へ受け渡していく役割を持つ
→ 比較的軽く扱う
2つ目のC音は和音の厚みを伴い、音楽的にも重心を置きたい位置
→ ダウンの動作を使って、より深く響かせる
つまり、ここで「アップ」と「ダウン」を使い分けるのは、単に動作の方向によって音量を決めているからではありません。拍構造や音の厚みといった音楽的な要素に、身体の動きを対応させているのです。
► 応用:動作が小ぶりなアップ・ダウン
ここからは一歩進んで、手首の上下動に肘の回転を組み合わせる弾き方を見ていきましょう。
同じ音型が高速で繰り返されるパッセージでは、指の力だけに頼ると動きが硬くなりがちです。ここに肘の小さな回転をうまく取り入れることで、驚くほど弾きやすくなります。
※ここでは便宜上「肘の回転」と呼びますが、実際には前腕の回旋を伴いながら、肘や腕全体が小さく連動する回転運動を指しています。
‣「シャンドール ピアノ教本」が教える大原則
ピアノ奏法の名著として知られる「シャンドール ピアノ教本」では、レガート奏法について次のような趣旨のことが述べられています。
(以下、抜粋)
グループの弾き始めでは手首・手・腕を比較的低く構え、弾き終わりでは高くする。これが例外なき大原則である。
(抜粋終わり)
これは、本記事で扱っている「ダウンからアップへ」という動作を理解するうえで、非常に重要な考え方だと言えるでしょう。
多くの熟練したピアニストは、こうした身体の動きを意識的・無意識的に使い分けています。しかし、学習者の立場から見ると、「なぜその動きが必要なのか」を言葉で整理する機会は意外に多くありません。
・シャンドール ピアノ教本 身体・音・表現 著 : ジョルジ・シャンドール 監訳 : 岡田 暁生 他 訳5名 / 春秋社
‣ 例:ブルーメンフェルド「左手のための練習曲 Op.36」
ブルーメンフェルド「左手のための練習曲 Op.36」
譜例(PD楽曲、浄書ソフトで作成、87-89小節)

1拍ずつスラーで区切られたまとまりが連続する箇所です。
弾き方のポイント
・スラーの最初の音で手首を少し沈め込み(ダウン)
・続く4音を弾きながら、少しずつ手首を上げていく(アップ)
・「手首だけ」を上げるのではなく、「手の甲ごと」持ち上げるイメージで
・このときに、↻ で示したように、4音のまとまりごとに肘を小さく時計回りに回転させる(このような下降音型では)
ここでいう「手首を上げる」というのは、手首の関節だけを単独で折り曲げるという意味ではありません。手首・手・前腕が連動し、手の甲全体が次の音型へ向かって持ち上がっていくようなイメージです。
「タ・タ・タ・タ」と1音ごとに動作を入れるのではなく、親指の打鍵というワンアクションで4つの音を弾いてしまう感覚を持ってみてください。アップの動作は、そのまま次のスラーのダウンへの準備にもなっており、この繰り返しこそが、弾きやすさと美しいレガートを両立させるコツと言えるでしょう。
※「↻」は、譜例に示した方向への小さな回転運動を表しています。ここでは、手首と肘を結ぶ前腕の軸を意識しながら、腕全体を小さく回転させるイメージです。
試してみる
あえて手首と肘を極端に制限して弾いてみると、非常に弾きづらく感じるはずです。この違いを体感することが、アップ・ダウンと肘の回転の必要性を理解する近道になります。
‣ 例:ライネッケ「左手のためのピアノソナタ Op.179 より 第4楽章」
ブルーメンフェルドの例では、音型全体を通して一定の身体の流れを作りました。一方、ここでは、パッセージの中の特定の反復音型だけに回転を使います。
ライネッケ「左手のためのピアノソナタ Op.179 より 第4楽章」
譜例(PD楽曲、浄書ソフトで作成、1-4小節)

↻ で示したように、同じ音型が高速で反復される部分に限って、肘の回転を小さく取り入れると、指をせわしなく動かさなくても対応できるようになります。この箇所では親指で奏でるメロディを強調する必要がありますが、ダウンの動作を使うことで深みのある音を出しやすくなります。
‣ 例:ボルトキエヴィチ「4つのピアノ曲 第3番 祝婚歌 Op.65-3」
もう一つ、部分的に肘の回転を活用する例を見てみましょう。
ボルトキエヴィチ「4つのピアノ曲 第3番 祝婚歌 Op.65-3」
譜例(PD楽曲、浄書ソフトで作成、27-28小節)

ここで大切なのは、曲全体を通して常に肘を回転させることではありません。音型が反復される箇所だけ、動きを一時的に利用し、音型が変わったら自然にその動きを解放します。
肘の回転を「積極的に使わなければならない技術」と考えるよりも、「必要なときに身体が自然に動くことを許す」と考えたほうがいいでしょう。
こうした身体の使い方を一度意識に入れておくと、別の楽曲でも必要な場面で自然に応用できるようになります。逆に、こうした可能性をまったく意識していないと、指先だけですべてを弾こうとする方法に陥ってしまう学習者も少なくありません。
► 手首や前腕の動きについて、さらに体系的に学ぶ
本記事で扱った手首や前腕の動きについて、さらに体系的に学びたい方には、セイモア・バーンスタインの「ピアノ奏法20のポイント―振り付けによるレッスン」もおすすめです。
本書では、手首・上腕・前腕など、ピアノ演奏における身体の様々な動きを「振り付け」という視点から解説しています。本記事のように左手作品の譜例を中心に解説するものではありませんが、前腕のローテーションや、縦・横・回転の動きを組み合わせる考え方は、本記事の内容とも深く関連します。
ピアノ奏法20のポイント―振り付けによるレッスン 著:セイモア・バーンスタイン 訳:大木裕子、久野理恵子 / 音楽之友社
► 終わりに
手首のアップ・ダウンや、前腕・肘の小さな回転は、速いパッセージを弾くための「特別な技術」ではありません。音楽の流れに合わせて身体の重心を移動させ、指だけに負担を集中させないための自然な動きです。
特に左手独奏では、左手が旋律・バス・内声・伴奏など複数の役割を連続して担うため、こうした身体の使い方が演奏のしやすさに大きく関わります。
実践する際は、次のような順序で進めるといいでしょう:
1. ゆっくりしたテンポで、手首と腕の動きを確認する
2. 指の動きと手首・腕の動きを連動させる
3. 必要な箇所だけに動きを取り入れる
4. 少しずつテンポを上げる
5. 動きが大きくなりすぎていないか確認する
大切なのは、手首や肘を「動かすこと」そのものではありません。必要な場所で、身体が自然に動くことを許すことです。
左手作品は、こうした身体の使い方を観察する教材としても非常に優れています。普段何気なく弾いている音型でも、「ここでは身体の重心がどちらへ向かっているのか」「どこで動きを切り替えているのか」という視点を持つと、演奏の感覚が大きく変わってくるでしょう。
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