【ピアノ】国境を越えた作曲家・編曲家たち:パターソン「One Handed」に見る片手音楽と人の移動

【ピアノ】国境を越えた作曲家・編曲家たち:パターソン「One Handed」に見る片手音楽と人の移動

► はじめに

 

【ピアノ】片手ピアノ音楽に関わった人物はどの国に多い?:パターソン「One Handed」の掲載人物を国別に集計 の記事で、片手ピアノ音楽の担い手はアメリカに大きく偏っているという傾向を見てきました。ただ、「アメリカの作曲家・編曲家」といっても、生まれながらのアメリカ人ばかりではありません。Donald L. Pattersonの「One Handed: A Guide to Piano Music for One Hand」には、出身国と活動国が異なる人物、つまり、国境をまたぐ経歴を持つ人物が数多く記録されています。

本記事では、そうした「国境越え作曲家・編曲家」たちだけを抜き出して、どこからどこへ、いつ頃移動していったのかを見ていきます。

 

► 集計の考え方

 

Pattersonの資料では、多くの人物に単一の国が記載されている一方、一部の人物には「Germany/USA」「Poland/USA」「USA born Germany」のように、2つの国名が並べて記載されています。今回は、この2か国以上の国名が明記されている人物を「国境越え作曲家・編曲家」として抽出しました。本記事では、便宜上「国境越え」と呼びますが、これは実際の移民・亡命経験を個別に確認したことを意味するものではありません。書籍全体で名寄せをした結果、該当する人物は56名でした。全掲載人物635名のうち、約9%にあたります。

※Pattersonの編曲章には、既存の名曲の「原曲の作曲家」も国名付きで記載されています。この中には、本人が片手音楽に関わったわけではなく、没後に別人が作品を片手用に編曲した結果、国名だけが資料に載っている人物(例:フレデリック・ショパン)が含まれます。したがって、以下の56名すべてが「本人が片手音楽に携わった」わけではなく、一部は「原曲作曲家として編曲対象になった」人物である点にご留意ください。

 

今回のテーマである「国境越え」を読み解くには、どちらの国からどちらの国へ、という「方向」が本来必要です。しかし、Patterson自身の記載からこの移動方向を機械的に読み取ることはできません。そこで本記事では、以下のグラフ・表・本文中で「→」を使っている箇所は、その作編曲家について一般に知られている経歴(生まれた場所、活動の中心地として広く紹介されている国)をもとに、記事作成時点で個別に確認できた範囲で方向を補って示しました。方向を確認できなかった、あるいは経歴上どちらとも言い切れない人物については「/」または「⇔」で並記し、方向を特定しない形にしました。

したがって「→」の向きは、Pattersonの国名表記そのものではなく、記事執筆時に補った経歴情報にもとづきます。特に知名度の低い人物については、確認できた情報が限られるため、方向の誤りが残っている可能性があります。

また、今回対象にしたのはあくまで資料に2か国以上が明記されていた人物のみです。実際には出身国と活動国が異なるのに、資料上は1か国しか書かれていない人物もいるはずで、実数はもう少し多い可能性が考えられるでしょう。「born」の表記は出生地を示すもので、必ずしも本人が国籍を変更したことを意味するとは限りません。

 

► パターソン「One Handed」に見る片手音楽と人の移動

‣ どこからどこへ:移動のパターン

 

56名の国の組み合わせを見ると、特に目立つのが「ヨーロッパ諸国とアメリカ」の組み合わせです。上位の組み合わせを見てみましょう(「→」「⇔」の使い分けは前述の基準によります)。

どこからどこへ:移動のパターン グラフ
※56名のうち、同じ国・地域の組み合わせが2名以上ある例のみ抜粋。「→」の向きは前述のとおり、記事執筆時に確認した経歴情報にもとづいて補ったものです。

 

56名のうち、2か国のいずれかにアメリカが含まれる人物は37名にのぼり、約3分の2が何らかの形でアメリカと結びついています【ピアノ】片手ピアノ音楽に関わった人物はどの国に多い?:パターソン「One Handed」の掲載人物を国別に集計【ピアノ】片手ピアノ音楽を担ったのはどの時代の人物?:パターソン「One Handed」掲載人物の生年を集計 という記事で見た「アメリカが国別分布・年代別分布のどちらでも突出している」という結果には、アメリカ生まれの人物だけでなく、ヨーロッパなどからアメリカへ活動の場を移した人物の存在も影響していることが見えてきます。

 

‣ 時代ごとに見る移動の背景

· 19世紀:ヴィルトゥオーゾたちの新大陸行き

 

19世紀生まれの人物には、ヨーロッパで演奏家・教師として活動したのち、演奏旅行や招聘などをきっかけにアメリカへ渡ったヴィルトゥオーゾ・ピアニストも見られます

Rafael Joseffy(ハンガリー→アメリカ)やRudolph Ganz(スイス→アメリカ)、Mark Hambourg(ロシア→イギリス)などがこの世代にあたります。ショパンの左手編曲で知られるLeopold Godowskyも、ポーランドに生まれてドイツで学び、最終的にアメリカへと渡った人物として、この系譜に位置づけられます。

 

· 1930年代前後:ナチス政権下からの亡命

 

1890年代から1910年代生まれの世代になると、移住の理由が大きく変わってきました。この世代には、オーストリアやドイツからアメリカへ渡った人物が多く見られます。Erich Wolfgang Korngold、Walter Bricht、Eric Steiner、Hansi Magdalen Alt、Stefan Bardas、Karl Kohn、Lukas Fossなどがその例で、この中には、ナチス政権成立後のヨーロッパからアメリカへ移住・亡命した人物も含まれています

Korngoldがウィーンからハリウッドへ活動の場を移したことはよく知られていますが、こうした著名な例だけでなく、Pattersonにはあまり知られていない同世代の作曲家・編曲家も数多く記録されており、片手音楽の担い手がアメリカに集中した背景の一つとして、この時代の政治的な激動も考える必要があるでしょう。

 

· 20世紀後半:より多様な行き先へ

 

1930年代以降生まれの世代になると、行き先はアメリカだけでなく、オーストラリアやカナダなど、より多様な国へと広がっていきます。Raoul Sosa(アルゼンチン→カナダ)、Michael Hannan(イギリス→オーストラリア)、Miguel del Aguila(ウルグアイ→アメリカ)といった例が見られ、20世紀後半にかけては、アメリカだけでなく、オーストラリアやカナダなどにも活動の場が広がっていった様子が見て取れます。

 

‣ 移動元は必ずしもヨーロッパだけではない

 

アメリカ・ヨーロッパ間の移動が目立つ一方で、それ以外の組み合わせも見逃せません。Alexandre Tansmanは、ポーランドに生まれ、フランスへ活動の場を移した作曲家です。また、Vladimir Ussachevskyは満州生まれ(ロシア系の家系が中国に移り住んでいた時期に誕生)という珍しい経歴を持ち、その後アメリカへ渡っています。Pozzi Olga Escot(ペルー→アメリカ)やMiguel del Aguila(ウルグアイ→アメリカ)のように、南米からアメリカへという移動も確認でき、片手音楽をめぐる人の移動は、必ずしもヨーロッパだけの物語ではなかったことが分かります。

なお、今回抽出した56名の中には、フレデリック・ショパン(ポーランド→フランス)のように、本人が片手音楽に関わったわけではなく、没後に他の人物によって作品が片手用に編曲された結果、資料上に国名が記載されている人物も含まれています。一覧表ではこの点が分かるよう「原曲の作曲家(編曲対象)」として区別しています。

 

‣ 国境越え作曲家・編曲家一覧(年代順・代表例)

 

「→」は経歴情報から方向を補ったもの、「/」は方向を特定していない組み合わせです(基準は前述のとおりです)。

作曲家 国の組み合わせ 生年
Alexandre Reinagle イギリス→アメリカ 1756
James Hewitt イギリス→アメリカ 1770
Frederic Chopin(原曲作曲家・編曲対象) ポーランド→フランス 1810
Theodore Leschetizky ポーランド/オーストリア 1830
Leopold Godowsky ポーランド→ドイツ→アメリカ 1870
Igor Stravinsky ロシア→アメリカ 1882
Hans Gál オーストリア→イギリス(主な活動地:スコットランド) 1890
Erich Wolfgang Korngold オーストリア→アメリカ 1897
Alexander Tcherepnin ロシア→アメリカ 1899
Walter Bricht オーストリア→アメリカ 1904
Vladimir Ussachevsky 中国(当時の満州)→アメリカ 1911
Lukas Foss ドイツ→アメリカ 1922
Raoul Sosa アルゼンチン→カナダ 1939
Michael Hannan イギリス→オーストラリア 1949
Miguel del Aguila ウルグアイ→アメリカ 1957

※全56名中、時代の広がりが伝わるよう15名を抜粋しています。

※国名は原則として現在の国名を用いた便宜的な分類であり、19世紀以前の人物については、当時の政治的・歴史的な領域と現在の国境が一致しない場合があります。

 

► 注意点

 

今回の集計は、あくまでPattersonの記載にもとづくものです。記載された国名は、必ずしも国籍そのものを意味するわけではなく、出生地や活動地などを示している場合があり、実際の亡命・移住の経緯や時期までは資料からは読み取れません。また「born」の表記だけで国境越えと判断している人物も含まれるため、単に出生地が記録されているだけで、その後の活動国とは関係が薄いケースが混ざっている可能性もあります。あくまで、片手音楽というジャンルにも、国境を越えた人の移動が関わってきた一面を示す一つの手がかりとして読んでいただければと思います。

 

► 終わりに

 

片手音楽の担い手として名を連ねる作曲家たちの中には、生まれた国と活動した国が異なる人物が想像以上に多く含まれていました。19世紀のヴィルトゥオーゾたちの新大陸行きに始まり、1930年代のナチス政権下からの亡命、そして戦後の英語圏への多様な広がりまで、片手音楽の歴史もまた、20世紀の政治や社会の動きと無関係ではなかったことがうかがえます。

この「国境を越えた人物たち」のリストからは、国別・年代別の集計だけでは見えてこなかった、片手音楽をめぐる人の移動の軌跡が浮かび上がってきます。

なお、国別・年代別・女性作曲家という他の切り口も含めた記事全体の見取り図は、【ピアノ】パターソン「One Handed」に見る、片手ピアノ音楽をめぐる多角的な視点 まとめガイド をご覧ください。

 

参考文献:

・「Piano Music for One Hand」(テオドール・エーデル 著)
・「One Handed」(ドナルド・L・パターソン 編)

 

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